山下半太夫(やましたはんだゆう)


 山下半太夫は、薩藩旧伝集によれば半太、蓑輪伊賀自記には半太夫と記されている。

半太夫は平家の流れをくむ、北村城主北村伯著守清康の家老であった。

北村氏系図によると天文二十三年(一五五四)島津軍によって蒲生祁答院方の岩剣城が落されると、北村清康の長男安芸守は、親類の郡山領主兼島津軍部将、比志島美濃守国守(蒲生落城後、蒲生初代地頭となる)のひそかな説得により、主君たる蒲生範清を裏切って島津軍に降伏し、蒲生城を攻めようという決意を固めていた。

ところが、このことが、うすうす蒲生城にも聞こえて、蒲生方と北村方は不和になり、安芸守は北村城に居ることができず、妻子を城中に残し、単身鹿児島の島津軍に投じていった。北村城は父の清康と、弟の伯著守が蒲生方として守っていた。ところが、島津軍が蒲生城に総攻撃をかけそうな様子なので、蒲生と北村は内輪争いをしている時ではないと、和解一致して島津軍に当ることを約した。その約束の印に、日を定め、両城から同時に空鉄砲をうつことになった。半太夫は北村方の勇士として、この鉄砲うちを、北村城下のわが屋敷から行なった。ところが、彼は空砲ではなく、実弾をうった。

この後、半太夫は、かねて心に秘していたとおり、偽計をもって島津軍を負けさせょうと思い、すぐさま北村城を抜け出て、佐山峠にいた島津軍の前哨線の武士に、いつわって降伏を願い出た。「蒲生氏も北村氏も頼みとするに足らず、その上、不和解消の固めの空砲うちに、実弾をうったので、城に帰っても殺されることは必定、よって是非島津方のために働きたい」というのである。

島津方では北村城に聞こえた勇士が降伏してきたので、先に北村安芸守の降伏のこともあり、喜んで半太夫を用いることにした。そして、何くわぬ額をしてここは城に帰り、島津軍の一月二十三日の北村城攻撃の時、城の一番攻めやすい所に火をあげよと命じた。

 城に帰った半太夫は、事の由を主君清康に告げ、城中はもちろん、蒲生城にもその旨連絡して、一月二十二日の夜のふけるのを待った。

 二十三日の午前二時吉田城を発した島津貴久同義久同尚久等の軍は、北村城の一角に火の上るのを見、その下から尚久隊を先鋒としてドツと攻めかけた。待ち受けていた北村勢は、大石をまくり、矢や鉄砲を雨あられと射かけた。山下の謀計であったことに気付いた時はもう遅かった。狭い迫になった所なので、島津軍は展開することもできず、散々に敗れてしまった。ここを後年、鬼の住み家のように恐ろしかった所という意味で、「鬼ケ迫」と名づけたという。 島津軍の大将貴久は、中瀬戸の石に腰を掛け、戦況を見ていたが、味方の敗走の中にまじり、岩戸川原に出たところ、待ち受けていた蒲生城の兵と、北村城の兵に挟み討ちにされ、大敗北を喫してしまった。そして、島津歳久は傷つき弟子丸播磨守や、指宿・敷板・福崎・浜田・青山・名越・池井など、名だたる武将が次々に戦死してしまったのである。

 弘治三年(一五五七)蒲生落城後、島津軍は憎い山下を見つけて殺せ、ただし妻子は助けよとの命で、必死に探したが見つからなかった。半太夫は郡山のほうに落ちのび、行方知れずになったという。

享保二年(一七一七)の蒲生衆中先祖記によると、半太夫の子孫の正左衛門の条に、「正左衛門、父は西浦村松原の百姓、慶長の時分衆中になる」とあるので、蒲生合戦後、山下家はひそかに西浦の松原にひそみ、百姓をしていたものであろう。世がおさまり、慶長年間になって、始めて蒲生衆中に取りたてられ、また士分となったのである。

 

 半太夫の墓は、島津氏に遠慮して、すぐには建てられなかったものと思われ、蒲生合戦後百二十二年めの延宝七年(一六七九)五月十一日建立、法名桑門了心上座となっており、北村城下の山中にある。ここが半太夫の屋敷跡といわれている。 子孫は西浦 山下繁志氏、繁道氏である。文責 松永守道

山下憲男 転載


次のページに進む   目次に戻る  TOPページに戻る