弟子丸播磨守(でしまるはりまのかみ)

生年不明、天文二十四年一 月二十三日死
 父は弟子丸備前守といい、現在の国分市清水の弟子丸を領知し、大永三年(一五二三)十二月五日同地を−守り戦死している。 播磨守は戸井氏に生まれ、備前守の養子となり、武功多く、島津貴久の部将を務めた。

 天文二十四年(一五五五)一月二十三日、島津貴久は北村城に総攻撃をかけたが、北村方の山下半太夫の謀計にかかり散々に打ち破られ、岩戸川原の決戦では指宿右馬允・舎人竹若丸・指宿四郎二郎・敷根源八兵衛・福崎二郎三郎・浜田五藤兵衛・青山太郎三郎等、忠勇の士が次々に討たれ、貴久も死を決した。この時、弟子丸播磨守は、乱軍敗走の中をあと帰り、馬を飛ばして貴久を守り、貴久を後川内方面におとし、自らは貴久の身代りとなって奮戦戦死した。これを後年、「北村の返り忠」といってほめたたえている。

 戦死地の近くには、子孫の弟子丸輿次右衛門によって塞が建てられ、播磨の太刀を格護していた中福良の吸元氏が、代々花香役として仕えていた。しかし、昭和十年代になって、弟子丸家も墓参りに見えなくなり、坂元透家にあった播磨の太刀も、戦地に行く人に売られ、吉田塩柚の弟子丸彦人民が、播磨の墓を吉田に移したので、もとの墓のあった所の大岩の上には、鹿児島市常盤町の弟子丸方書氏が昭和十五年(一九四〇)に「弟子丸播磨墓跡」の碑を建てた。これにより、墓は吉田町塩柑の弟子丸宗義家墓地に、墓跡碑は岩戸の旧道わきに現存する。方吉氏や宗義氏は播唐の子孫であるが、その嫡流はいずれであるか不明である。                文責 松永守道


野村武蔵坊乗綱(のむらむさしぼうのりつな)

生年不明、死去年不明五月九日
 父は加世田衆中野村甚左衛門尉豊綱。乗綱は初め玉泉叛、頼宝紡といい、後、武蔵彷と号した。加世田衆中の山伏として、吉野の大峰に七度も入って修験の修行をし、大峰先達となった。

 島津氏の諸所の合戦に従軍し、怨敵退散の護摩をたき、弘治元年(一五五五)からは蒲生合戦に参加、島津貴久の供をして敵将調伏の秘法をこらし、同三年蒲生城落城後、加世田から蒲生に召移された。蒲生での屋敷は、下久徳の蒲生家屋敷跡の東、町田堂のそばに賜わり、戦後の蒲生の鎮撫経営のため、地頭比志島美濃守国守に協力して功があった。墓は屋敷の一角に建てられたが朽揖のため、元文二年(一七三七)に再建されて現存し、子孫は野村豊一氏である。     文責 松永守道


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