敬天舎同人誌舎報第10号(平成2年5月)より転載 

父のニューギニア戦記          
山下憲男  (42才)

感       状 
山 下 大 隊     歩兵第二百三十七聨隊第一大隊
九揚陸隊主力

右ハ大隊長陸軍少佐山下繁道指揮ノ下ニ昭和十九年十二月下旬ヨリ青津支隊長ノ指揮ニ属シ「ソナム」以西作戦ニ従事シ善戦敢闘常ニ優勢ナル敵ヲ撃破シ支隊ノ「ソナム」以西作戦遂行ノ為絶大ノ貢献ヲナセリ

即チ十二月下旬以来「セルエン」岬「サルプ」ノ間ニ於テ終始六十名以下ノ寡兵ヲ以テ頑強且ツ優勢ナル敵ノ来攻ニ対シ一月二日断乎「セルエン」草原陣地ニ対シ攻勢ヲ敢行シ以テ其ノ企図ヲ挫折セシメ爾後或イハ斬込潜入攻撃或イハ後方攪乱或イハ拠点固守ニ連日連夜敢闘ニ次グニ敢闘ヲ以テシ逐次之ヲ破壊シ一月二十八日支隊ノ邀撃態勢確立迄克ク「サルップ」附近ヲ確保シ支隊ノ爾後ノ作戦ヲ著シク容易ナラシメタルノミナラズ爾後引続キ海岸正面ノ戦闘ヲ担任シ全期ヲ通シ敵ヲ殺スコト二二九ニ及ベリ此ノ間部隊ハ猛号作戦後ノ体力低下益々著シク且ツ訓練不十分ナル兵員ヲ主トセルニモ拘ラズ必死敢闘克ク任務ヲ完遂シ敵ニ多大ノ損害ヲ与エタルハ大隊長率先陣頭ニ進出シテ行ウ真摯適切ナル指揮ノ下全員ガ特ニ烈々タル闘魂ヲ以テ皇軍ノ本領発揮ニ邁進シタル證左ニシテ全軍ノ亀鑑タリ             

仍テ茲ニ感状ヲ授与シ其ノ勲績ヲ顕彰セントス

  昭和二十年四月三日

      第十八軍司令官 陸軍中将 安達二十三


■感状(注 戦地で抜群の功績があった軍人または部隊に与えられた表彰状で、国家で定めた規定により、天皇に報告されるとともに、全軍隊に布告される)

■台湾歩兵第二聨隊聨隊旗手時の写真一枚

■指揮刀(軍刀)

■礼服(少尉時代の物)

 

以上が戦後四十四年間、我が家と太平洋戦争との接点であった。その父が昭和最後の年六十三年十一月、闘病生活ののち八十五才でこの世を去って一年三ケ月が過ぎようとしている。


 以前、児玉正志先生より父が戦った「ニューギニア戦線」は凡そ戦争と名の付く戦史のうちで最も苛酷な筆舌を尽くしがたい戦いであり、父は希にみる生残りで、且つ貴重な体験者である。手記か体験談を寄せて貰えないかとの相談をお受けした。父は生前、戦争のことは殆ど話さず、また改まって聞く機会(雰囲気)もなかった。母に尋ねてみたが父の経歴もろくに知らされておらず、今になって只、申し訳ないというばかりである。

 父は、戦場で死んでいった多数の部下のことを思うと、負けた戦を得意になって人に喋る気にもならなかったのではあるまいか。生前「自分は一回死んだ人間だから」とよくいい奉仕する役などを多数引き受け、多くの書類を残してはいるが、戦史の類いは皆無である。それでも生前だったらまだしも、今となっては何ともならない。その旨、児玉先生にお伝えしたが、何か紙切れ一枚ぐらいでも残ってはいないのだろうか、とのお話が再度あった。また、貴重な体験をした人達の歴史を残していくのも我々の勤めである。と諭されて、一介のコンピューター技術屋が、ワープロを前にして、原稿作成を始めた。

偶然、父の戦友であった皆藤氏(当時の山下大隊の副官、陸軍中尉、現在茨城県在住)より「終戦直後復員時に作成し厚生省に提出した第四十一師団、歩兵第二百三十七聨隊の名簿に関する資料の原紙が鹿児島の大隊長の家にある筈なので見せて欲しい」との知らせがあった。母と一緒にそれらしき所を捜してみると聨隊隊員の留守名簿、戦死兵功績列次名簿、死没者名簿、それに父が賜った勲四等瑞宝章等の各種勲章、戦後極東米軍指令部の要請により書いた作戦の教訓、在郷軍人会誌の要請により書いた作戦史等が出てきた。

 特に私が驚いたのは、聨隊留守名簿に記載されている将兵の殆どが戦死と記入され、生存者が余りにも少ないことであった。つまり、歩兵第二百三十七聨隊、四、〇七四名(ニューギニア転進の為の編成時)から二年有余の想像を絶する戦いをし、戦死者三、四七九名。他部隊への転属者、内地帰還者、行方不明者を除き、終戦の翌、昭和二十一年復員船で日本の土を踏めたのは聨隊で四六名、生存率約一%、損耗率九九%であった。

 山下大隊も昭和十八年四月ニューギニア上陸時の兵力、約一、二〇〇名、同じく日本の土を踏めたのは僅か8名、生存率0・6%、損耗率九九・四%であった。南方の孤島での戦闘がいかに激しいものであったかは、戦後生まれで戦争体験のない私には数字の上でしか理解できないのである。
 

父の生前だったら聞こうと思えば幾らでも聞けたことが、今となっては書き残された文章のはしはしでしか皆様方にお伝えできないことをお許し願いたい。

 また、父の戦記は、要求されて記述したものであり、局地的な戦闘場面の主要なポイントのみを綴っている。従って、その背景ならびに史実で特に必要と思われるものは、防衛庁防衛研究所戦史室が編纂された「戦史叢書」、ならびに第四十一師団将兵の書かれた手記の一部を抜粋して転載した。
 

文章は、原文のままで掲載したが、一部現代かなづかいに直したり、また戦後生まれの読者(敬天舎同人)もおられることを想定し、(注)で補足した部分もある。


それでは父の戦記を掲載する前に当時の時代背景をご紹介する。

  一、時代背景

 太平洋戦争の敗戦への分岐点として海軍はミッドウェー海戦、陸軍はガダルカナル作戦であったといわれている。昭和十七年一月、当時太平洋方面で海軍最大の根拠地であったトラック島の前進根拠地として陸海軍協同してニューブリテン島のラバウルを占領した。

 次に大本営は豪州の孤立化を企図し、太平洋における米豪連絡線を遮断することとし、陸軍は第十七軍(軍司令官 百武晴吉中将)を新編し作戦を準備した。ところが五月中旬の珊瑚海海戦、六月上旬のミッドウェー海戦の結果、大本営は遮断作戦を中止し、第十七軍に対して東部ニューギニア南岸の要衝ポートモレスビーの攻略を命じた。

 一方、連合軍はラバウル奪還の作戦を計画し、その攻勢をソロモン諸島のガダルカナル島から始めた。陸軍は一木支隊(長 一木清直大佐)、川口支隊(長 川口清健少将)を同島に派遣したが、その攻撃はいずれも惨澹たる失敗に終わった。第二師団(長 丸山政男中将)、増援した第三十八師団(長 佐野忠義中将)も完敗し、ガ島の戦局は餓死者が出るほどの、大東亜戦争開始以来の重大な局面を呈するに至った。

 これに対し大本営はまず第五十一師団(長 中野英光中将)の派遣を令し、次いで第八方面軍(軍司令官 今村均大将)の編成派遣を下令した。昭和十七年十一月九日第八方面軍新設で参内した今村司令官に対して、天皇は「南太平洋より敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有する。速やかに苦戦中の軍を救援し、戦勢を挽回せよ。」とご自身準備されたものを読み上げられたあと、「今村、しっかり頼むぞ」と強くおっしゃった。その際、もう一つ侍従武官を通じ、次のような内意をもらされた。「ただガダルカナル島攻略を止めただけでは承知し難い。どこかで攻勢に出なければならない。どこかで積極作戦を行えぬか。」
 

開戦以来、いたるところで勝ち続けていた日本軍が、退却したとなると国民の士気に影響する。このバランスをとるため、どこかの正面で攻勢をとれないかという、至極当然なご判断である。そこで杉山総参謀長は、ニューギニアで攻勢をとり、士気を盛り返しますと奉答した。杉山総参謀長がどの様な理由で、このような奉答をしたかは明らかでない。

 十一月二十六日指揮権を発動したこの方面軍は、ソロモン方面を担任する第十七軍と新たに東部ニューギニア方面を担任する第十八軍(軍司令官 安達二十三中将)を基幹とし、戦略単位の兵団としては前述の各師団のほかに、第六師団(長 神田正種中将)、第二十師団(長 青木重誠中将)、第四十一師団(長 阿部平輔中将)、第六十五旅団(長 眞野五郎中将)などが、その隷下に入れられた。

 既に制海、制空権を喪失したガ島の戦場において、飛行場奪還の目途なしと判断した大本営は、十八年一月上旬、同島の兵力を撤退する大命を発したので、十七軍の諸部隊は北部ソロモンのブーゲンビル島に撤退した。
 

さて、ニューギニアでは十八軍が二月中旬までに、第二十師団はマダン、第四十一師団はウエワクにとそれぞれ展開を終えた。続いて八十一号作戦のもとに、ラエ、サラモア守備を担当する第五十一師団の主力約七、〇〇〇名と第十八軍戦闘指令所が東部ニューギニアのラエへ向かったが三月三日ダンピール海峡を過ぎラエを目前にして海上で米軍の、延べ一四六機の空襲を受け二十分の瞬時に輸送船七隻、駆逐艦四隻が撃沈され、兵員約半数が死んだ。

 安達司令官はラバウルに引き返し、第五十一師団、師団長以下約一、二〇〇名が辛うじてラエに上陸した。戦史上これを「ダンピールの悲劇」という。この悲劇を奏上に参内した杉山総参謀長に対し、天皇は、数々の質問の後「今後、ラエ、サラモアが、ガ島同様にならないように考えてやってくれ。ガ島の撤退が成績がよすぎたので現地軍に油断ありに非ずや。後の兵力は如何に運用の腹案なりや」とご下問された。総参謀長は「今次の敵航空兵力の実現より、現状としては、マダン付近の飛行場を充分に整備し、防空態勢および交通路の整備を図り、聖旨に副うべく指導致したいと存じます」と奉答している。ニューギニア攻勢は、天皇も期待されていただけに、「ダンピールの悲劇」に対し永野軍令部総長に輸送作戦の失敗について「原因を探求」するよう命じられている。この時期の天皇のご関心ごとはニューギニア攻勢の維持であった。
 

一方、十八軍の諸部は東部ニューギニアの目標地ポートモレスビー近くまで進出したが補給が途絶し、戦史上「サラワケット越え」と呼ばれている悲惨な脱出を行った。この頃から連合軍の「蛙飛び戦法」(後述)が始り、前方地域に取り残された日本軍は、危険を冒して敵中を突破して後退せざるを得なかった。
 

大本営は十八年秋、南方方面で極力持久を策し、この間速やかに豪北方面から中部太平洋方面要域にわたり、絶対国防圏構想に基づき連合軍の反攻企図を破砕するという作戦指導方針を確立していた。矢継ぎ早の連合軍の侵攻を迎え、制空、制海権を殆ど喪失してしまったこの方面の作戦は、第一線部隊の必死敢闘にもかかわらず、このような一般方針と現実との断層があまりにも大きく、例えば、補給上の見地から戦闘を一時中断して、虎の子の作戦部隊主力を後方からの担送に使用するまでに至っていた。
 

ダンピール海峡が突破され敵中に孤立することになる第八方面軍に、直接中央の意図を伝達するために大本営は二月中旬参謀次長秦彦三郎中将、第二作戦課長服部卓四郎大佐以下をラバウルに派遣。一行がトラック島に到着した翌日、同島は連合国機動部隊の大空襲を受けた。この被害は、戦争指導上一大転換を余儀なくするもので、緊急事態に対処するため陸海軍大臣が現職のまま、参謀総長、軍令部総長を補親するという、統帥権上の変革が行われるほどの重大なものであった。

 かくして三月二十五日零時、第十八軍は第八方面軍の指揮を離れ、第二方面軍司令官(長 阿南惟幾中将、のち大将で終戦時の陸軍大臣)の隷下に編入され、ブナ、ギルナに始まり昭和二十年八月の終戦まで二年九ケ月間、終始マッカーサー軍との間に難戦苦闘を繰り返すのである。さて、「蛙飛び戦法」つまり「飛び石作戦」とは(堀 栄三著「大本営参謀の情報戦記」より転載する。)

 ローラーで一面に押してくる方式では無く、必要な所だけを蛙が跳ぶように占領していく方式で、マッカーサーのこの作戦は、昭和十九年になると急速にスピードを増加してきた。

 ニューギニアに於いては十九年一月グリーン島、二月末アドミラルティー諸島、四月ホランジャ、アイタペ、五月ワクデ、サルミ、五月末ビアク、七月ヌンホル島、七月末サンサホール、九月モロタイ島、ペリリュー島と、あたかも庭の踏み石を飛んでいくようなやり方で上陸作戦を実施してきた。マッカーサーの狙いは最終的には日本本土を米戦略空軍の爆撃可能空域に入れる為の基地獲得による制空権の確立であった。

 ニューギニア島の北岸は、赤道に近い東西千三百キロにわたる長い海岸線と二千メートルを越す脊梁山脈との間は、一面のジャングルに蔽われた前人未踏の土地で、これは土地というよりも海であった。進むに進まれず、軍隊の歩行を頑として拒否している。その原始林のジャングルの海の中に、ポツン、ポツンとわずかばかりの軍隊の展開できる平地があるが、これはジャングル海の孤島であった。

日本がニューギニアを東西に連なる陸地と考えていたとき、統治国の豪州を友軍とした米軍は、戦前から既に地誌資料を得て「これは陸続きではない、海だ。点々と存在する猫の額のような平地は、樹海の中の孤島だ」と、研究を終えていたのである。そして米軍は、これを支配するのは歩兵ではない、航空以外にないと判断していたのである。しかるに日本の大本営は、ニューギニアを地図通り、歩兵の支配する普通の陸地と誤認した。

ここでの敵は米軍でも、豪軍でもない。道無きジャングル、雨季で増水する名も分からない川の氾濫、補給皆無による饑餓と疲労と疫病(特にマラリア)であった。 日本軍最高指令部は東京にある大本営、米軍最高指令部はニューギニアのポートモレスビーに在った。どちらが戦場を存分に知り尽くしていたかは、それだけでも明瞭であった。

ブナに飛行場を占領した米軍は、早速その飛行場を利用して制空権を取り、次のサラモア、フィンシュハーフェンと制空権を推進してくる。この原始林のジャングルの中で米軍が狙ったものは、ただ飛行場の確保だけであった。日本軍が孤立無援の中で必死に土地を占領している間に、彼等は飛び石で、空域を占領していった。

 一方、日本軍にもこれに似た思想が無かったわけではない、太平洋の多数の島は日本軍守備隊の在るところ必ず飛行場があり、全部がこの飛行場を守っていたのである。しかし、これら飛行場は、近くに米軍の艦隊が出現した時、航空母艦代わりに爆撃機や雷撃機を進出させるための飛行場であって、米軍のように制空空域を占領するためのものではなかった。この大違いの戦略的見解が、一方は玉砕になり、一方は空域の推進となって、日米の勝敗を分けてしまったことになる。

 この飛び石の距離は東部ニューギニアでは、最初の距離はせいぜい三百キロどまりであったが、日本の戦闘機が劣性になり、米軍の戦闘機の性能が向上したニューギニアの西部からは、行動半径が一千キロにもなって距離が飛躍的に伸びてきた。米軍の大戦略目標はニューギニアをつたってフイリピンへ行く矢と、中部太平洋を通ってフイリピンへ行く矢のうち、必要な石のみ選んで飛ぶのである。

 太平洋で日本が守備隊を配置したのは大小二十五島、そのうち米軍が占領した島は、僅かに八島に過ぎず、残りは見向きもされなかった。米軍にとって不要な島の日本の守備隊は、いずれ補給もない孤島で餓死すると見たのだろう。戦後の調査資料では、前記二十五島に配置された陸海軍部隊は二十七万五千人、そのうち八島で玉砕した人数が十一万六千人、孤島に取り残された人数が十六万人、そのうち戦後生還した人数が十二万強、差し引き四万人近くは孤島で、米軍と戦うこともなく、飢えと栄養失調と熱帯病で死んでいったのである。

 特に、ニューギニアの安達二十三中将麾下の第十八軍の当初の兵力は、三個師団と海軍守備隊を基幹とする約十四万八千人。陸続きと思った原始林のジャングルを伐り拓いて、八百キロ以上の死の大行進をして、西へ西へと進んだが、米軍の飛び石作戦の方が先に進んでしまって、アイタぺに兵力を集結し終えた時には、第十八軍は完全に米軍の後ろに取り残されていた。日本からの船での補給は完全に遮断され、米軍から見てもはや戦力では無く、太平洋と同じようなジャングルの海の孤島で、彼等の前に立ちはだかったのは饑餓と熱帯病であった。

 
戦後の資料によると、生還して日本の土を踏んだ者は一万二千人であるから、実に九十パーセント以上の兵士が無残にも命を落としてしまったことになる。

 ブーゲンビル島で最後まで残って帰った第六師団の神田正種中将は「軍紀も勅諭も戦陣訓も、百万遍の精神訓話も飢えの前には全然無価値であった。」と述懐している。大本営作戦当事者たちは、太平洋の島々の戦闘がこんな極限状況を呈することなど予想すらつかぬままに、作戦を指導していたのである。

 太平洋やニューギニアの戦場での将兵の勇戦奮闘と殉国の精神を称える一方、所詮、戦略の失敗を戦術や戦闘でひっくり返すことはできなかったということである。以上、「大本営参謀の情報戦記」より転載。

 戦場の悲惨が語られる時、ガダルカナル島が代表として挙げられ場合がある。ガ島で戦った将兵総数は約三万余、戦死約二万余、生還約一万といわれる。ガ島の戦闘期間は六ケ月、東部ニューギニアは三年二ケ月と差があるので、簡単に比較することは出来ないが、それにしてもニューギニアの戦闘がいかに惨澹たるものであったかは、全兵員数に対して戦死者数の占める割合からも察することができる。


  二、安達軍司令官とアイタペ作戦

 

ラエ、サラモア、フインシュハーヘンの戦闘で戦局が好転せぬ第十八軍へ第二方面軍、阿南大将は「速やかにウエワク以西に転移し、ホーランジャ、アイタペ、ウエワク等、特に主要航空基地の防衛を強化して持久せよ。」を命じた。

 実施に当たり、問題は第十八軍の各部隊が集結している場所から方面軍命令の場所まで約五〇〇キロ離れており、過去一年の戦闘で満足な健兵は半分もいないこと。 舟艇、自動車の無い中でどうやって軍隊を移動するのかということと、途中に世界第一のセピック大湿地帯(幅約一〇〇キロ)があることだ。

 
幕僚が手持ちの舟艇と現地人のカヌーを利用しても約二ケ月かかるとの計算になった。しかもマッカーサーが例の「飛び石作戦」で、どこにやってくるかも分からない。この機動自体が、戦術的に成り立つ条件を備えていなかったが、司令官は断乎、ウエワク以西への軍の西進を命令した。

 しかし、暫くしてその前進目標であるホーランジアとアイタペに連合軍が海上から先回りして四月二十四日奇襲上陸した。連合軍は更に二〇〇キロ西方のサルミ地区にも上陸し、第十八軍の退路を二重に切断してしまったのである。

 この急変に、大本営は六月二十日第十八軍を第二方面軍から離し、南方軍(長 寺内寿一大将)の指揮下にいれた。任務は「東部ニューギニアの要域に於いて持久を策し、以て全般の作戦遂行を容易ならしむべし」で「積極的に敵を攻撃する要はない。現在地域で自存をはかれ」と解された。

 軍レベルの部隊にこのような漠然とした任務を与えるのは例外に属する。打つ手がないこともあるが安達軍司令官の力量に任せたことにもなる。司令官がアイタペ会戦に至るまでに特に考えたと思われる点は、

一、全軍の食糧は十九年八月までに無くなる。直ちに農 耕を開始しても大部の生命を守ることは不可能である。
二、戦争全般の戦線が、西部ニューギニアから、マリア ナ海域に移動して、日本の陸海軍の総力を挙げて、興 亡を賭けて攻勢をとる時期である。

三、前進目標アイタペの敵の攻撃は難事である。だか、 その敵を当面抑留し、比島方面への進撃を遅緩させる ことは出来る。
 

これらの条件を熟考し、止まるも死、進むも死。だが止まった死は目的なき死であり、進んで死すれば、義を得る。成功の可能性は無いと知りながらも敢闘精神に徹し、皇軍の本領を発揮することによって全般の作戦に寄与し、且つ日本軍の士気を鼓舞しようという大目的がかかっていた。

 六月中旬アイタペ会戦に参加する第二〇師団、第四十一師団の将兵の実情を視察しながらこのアイタペ攻撃が普通の軍事常識では到底無理であることを改めて思い知り更に熟考を重ねた。
 

軍戦闘指令所を第一線に近い木村村附近に移動し、その木村村の第二十師団指令部に到着した軍司令官は、六月二十日頃から進出していた田中兼五郎参謀の報告を聴き、軍の現況と先に大本営から与えられた新任務とに基づき、アイタペに対する作戦を予定通り実行すべきかどうかに関し、再度の検討を行った。
 

杉山茂参謀はこの時の事情を次のように回想している。

 「木村村の戦闘指令所で軍司令官に呼ばれ意見を求められた。軍司令官の話は、今にして楠木公の気持ちが分かるが、しかし、その精神に沿ってアイタペの攻撃を決行して良いかどうか、ということであった。この期に及んで今更という感じもしたが、軍司令官が真剣に考えておられるので、一晩考えてから返辞することにした。そして田中参謀にも、お互い白紙に戻して考えようと打ち合わせをした。一晩考えたが、考えが同じところをどうどう巡りしているような感じで、他の手段はないように思えた。翌朝、田中参謀に聞くと、決心変化なしとのことであった。そこで軍司令官に決心変化ありませんと報告した。軍司令官は、『僕も変化ない。これが楠木公さんだね。』と言われた。」

 同じ時のことを田中参謀は戦後(昭31)次のように回想している。

 「七月一日軍司令官が到着された。夜私が報告すると、軍司令官はアイタペ攻撃につき、もう少し考えさせてくれとのことであった。三年近く幕僚としてお仕えしたのであるが、もう暫く考えさせてくれと言われたのは、この時だけである。その夜、閣下はまんじりともせずに熟考された。そして翌朝、『日本外史』を手にして出て来られ、杉山参謀と私に対して、昨夜、田中が言ったような趣旨でやりたいと思う。今まで『日本外史』を読んでいたが、楠木公が湊川に出陣された時の気持ちを模範としたいと思う。という趣旨を述べられた。」

 両参謀の陳述に多少の表現の差異はあるが、安達中将が楠木正茂の湊川出陣の心境を範にとり、アイタペ攻撃の決心をしたことは間違いない。かくして攻撃決行の決意を固めた安達中将は、軍主力の攻撃開始に先立ち、七月六日、全軍に次の訓示を配布した。

 猛号作戦本格的攻撃開始ニ方リ全軍将兵ニ与フル訓示「軍ハ今ヤ猛号作戦攻撃各部隊ヲ「ヤカムル」周辺ノ地区ニ集結シ将ニ本格的攻撃ヲ開始セントス。〜中略〜今ヤ敵ハマサニアイタペ付近ニ我ガ好餌ヲ呈シアリ、是レマサニ天佑ニシテ、軍ノ有スル戦力ヲ最モ有効ニ発揮シ敵戦力ヲ撃滅シ得ベキ絶好ニシテ最後ノ機会ナリ。モシソレ当初ヨリ持久ヲ主トセンカ、遂ニ軍ノ有スル戦力ヲ発揮シ得ズシテ、悔イヲ千載ニ残スニ至ランコト必セリ。〜後略〜 昭和十九年七月五日 猛部隊長 安達 二十三」。
 

この一五〇〇字程の長い訓示は、アイタベ攻撃の理由について委曲を尽くして説明してある。戦史上これを「第十八軍のアイタペ作戦」という。

 主戦場となったドリヌモア川(坂東川)の決戦場は文字通りの死闘である。七月中旬から八月四日までの戦闘で、日本軍の損害は、ほぼ玉砕の一三、〇〇〇名であった。

 
次に、この攻撃の先陣をつとめた第四十一師団歩兵第二百三十七聨隊の概要を説明する。併せて編成時と終戦時(復員時)の兵員数を対比させた。


  三、歩兵第二百三十七聨隊

     歩 兵 第 2 3 7 聨 隊 お よ び 関 連 図

          [第18軍編成時の兵員ならびに終戦時の兵員]

第18軍  

安達中将 

148000

 10072

第41師団

阿部中将 

(戦死)   

真野中将

 19034

    574
歩兵第237聨隊 4074(他に輜重、山砲大隊あり)

奈良大佐       46

第1大隊     大隊本部(8)210    ( )は将校数

山下少佐     中隊 第1中隊(4)180

  (30)        第2中隊(4)180

   1200        第3中隊(4)180
     8        第4中隊(4)180
              機関銃中隊(5)210

              歩兵砲小隊(1)60

第2大隊 淵上少佐−宮西少佐−森本少佐(歴代戦死)
第3大隊 葛西少佐  

人数
上段 編成時  
下段 終戦時

歩兵第238聨隊

歩兵第239聨隊   

第20師団  

青木中将 

歩兵第78聨隊

歩兵第79聨隊

歩兵第80聨隊  
第51師団  

中野中将

      
歩兵第66聨隊

歩兵第102聨隊

歩兵第115聨隊       
セピック兵団
ムシュ、カイリル島
その他軍直部隊

             聨隊について……

歩兵の最大単位が聨隊であり通常歩兵大隊三個を基幹としている。歩兵の最大の特色は、天皇から直接下賜される「聨隊旗」を持っていることである。
当聨隊は水戸歩兵第二聨隊補充隊で昭和14年8月1日第41師団隷下部隊として、朝鮮龍山の歩兵第78聨隊内で編成された。

この聨隊は水戸第二聨隊より補充を受けた勇猛果敢な水戸健児で、その大部分が水戸、宇都宮を中心とした出身者の編成となっている(奈良聨隊長は大阪、山下大隊長は鹿児島ではあるが)。


 これより父の戦記をそのまま掲載する。


 我が大隊(注 第一大隊)は「ニューギニア」上陸以来殆ど師団、歩兵団の直轄或いは他部隊の配属等にて独立行動をしていた関係上、作戦全体にわたることは省略し、「アイタペ戦」の主戦場となった「坂東川渡河攻撃」前後の模様を述べることにする。

 何しろ十三年前のこととて書類は無し、記憶を辿るも日時、地点等に於いて明確を欠いている場合もあろうかと思うが何卒ご容赦願いたい。

 [注 昭和二十七年七月米極東軍指令部より「坂東川付近の夜間渡河作戦の教訓を送られたし」、の依頼でまとめた資料に加筆し、昭和三十二年頃「四一会誌」に寄稿。その一部は「戦史叢書」(中部太平洋陸軍戦史第五巻)に「山下回想」としても記載されている。]


 四、ドリヌモア(坂東)川渡河攻撃前の状況

 六月中旬(日時不明)「ソナム」附近に於いて、軍は「アイタペ作戦」を準備する。第一大隊(山下大隊)は、「ヤカムル」附近に急進し「アイタペ」附近の敵情地形を捜索せよとの師団命令を受け、六月二十六日頃「ヤカムル」に到着。直ちに将校斥候四組を「アイタペ」附近に派遣し、大体次の様な情報を入手する。

  • アイタペ海岸には敵輸送船、上陸用舟艇が多数ある。
  • アイタペ飛行場には、敵機が盛んに離着陸する。

三、アイタペ東方は湿地帯で通過困難、南東方から攻撃 が可。

四、アイタペ東方道路は自動車通過盛ん。

五、アイタペ付近は食料(主として果実)が多い(斥候 の中にはまた派遣してくれと言う者あり。)
 

大隊は「ヤカムル」に到着する第二十師団に配属される。その後連日、主として湿地帯及び海岸道方面の捜索を実施する。敵は海岸道を東進中で、先頭には戦車、装甲車、その後方には自動貨車が三十車両以上も連なり、海岸道は砂塵寥々たりとの報告を受ける。七月二日頃には坂東川(注 アイタペ東方三〇キロの地点にあり下流は幅数百メートル、渡河地点のこの部分は幅二百、水深一メートルの急流)以西の海岸道に既に陣地を構築し、河口附近には上陸用舟艇が多数往来しており、七月五日には坂東川左岸に一部進出した模様。

 我が斥候は敵の射撃をうけ負傷者を出しうる状況にて、大隊長は速やかに第四中隊を坂東川右岸(川中島)附近に派遣して捜索拠点を占領した。七月七日頃より敵は逐次兵力を増加し、陣地構築に着手。警戒は厳重にて斥候の潜入も困難となった。陣地後方には各所連絡有線通信網、海岸方面には砲兵陣地の構築中を偵察。その後は専ら坂東川の渡河攻撃の準備に取りかかった。七月九日迄に知り得たる坂東川左岸の敵陣地形、図の如し。

 歩兵第二百三十七聨隊第一大隊戦闘概要図

 歩兵第二百三十七聨隊攻撃準備要図(七月十日夜)

  

 五、坂東川渡河攻撃の状況

 大隊は軍命令により「ヤカムル」に到着したら第二十師団に配属され、糧秣の補充を受けるようになっていた。ところが二十師団に連絡したところ補充すべき糧秣は無いとのことである。

すでに携行糧秣は食い尽くし、背嚢の中と将兵の腹の中は完全に空であった。

 将兵一般の心理は、既に生死は超越しており、早く敵陣に殺到し、敵の食糧を取って食べる  の一念のみで、これが本渡河攻撃成功の唯一の原因であったように思う。

七月十日午後一時半頃、聨隊(注 歩兵第二百三十七聨隊主力)が大隊の位置に到着し、師団命令の要旨と聨隊命令を下達。

それによると、十日二十一時五十分砲ならびに各種重火器の全火力を集中して敵を制圧し、二十二時を期して強第一大隊は第一線、聨隊本部第三大隊は第二線、第二大隊は第三線という意味の命令を行渡河、第一線を突破し約一キロ前進、兵力を集結してその後の前進を準備する。受領する。「聨隊長殿、敵の火力は相当なものです。劣悪な火力では敵を制圧するどころかかえって敵から制圧される。強襲は駄目です。聨隊は奇襲しましょう。」と言えば、聨隊長は軍命令だから命令通りやってくれとのことなり。

 聨隊は我が隊より遅く、只今到着したばかりなので各大隊長、中隊長に敵情地形を悉知させる必要を痛感し、「聨隊長殿、各大中隊長を連れ川岸に行って敵情を見ましょう。」と言えば聨隊長は「攻撃は貴官に一任する。聨隊主力は第一大隊の後をついて来るから」とのことなり。

 
 「林(第三大隊長)よ、敵情も川の中の状況も知らずに攻撃が成功するかよ、暗夜どこを通って前進するんだ。大隊長だけでも見に行こうや」と言えば、第二大隊長宮西大尉と顔を見合わせ「行こう」という返事をしない。 止むを得ず皆藤副官の作成した写景図に頼って敵情ならびに河岸の状況を説明する。(各級指揮官が自ら敵情地形を知らざることが後述する失敗の原因となる)大隊長は日没前、各中隊長を河岸に集め攻撃に関する細部を指示す。その要旨

一、軍は二十一時五十分全火力を以て前岸の敵を制圧し 二十二時を期して強行渡河する。

二、大隊は聨隊の第一線攻撃部隊となり、第一基点より 第二基点の間の敵を攻撃すべき命令を受けたるも該敵 を攻撃せず、第二十師団が攻撃を開始すれば川中島と 中洲の間(現地指示)の大きな流木のある低地より敵 の配備の間隙の葦の密生した突出部に向かい奇襲する。

三、機関銃中隊長は大隊砲を併せ指揮し、日没直後敵陣 地に侵入第一基点の側防火を制圧する如く準備する。 大隊が渡河を開始すれば射撃を開始し速やかに部隊に 追随せよ。第四中隊長は現在地にあって重火器を掩護 し、機関銃の後を前進しつつ聨隊主力と連絡する。

四、渡河順序は本部、1、2、3、MG(注 機関銃)、

 iA(注 歩兵砲)、4とする。

五、中隊長は敵火の状況により中洲を通過するまでは匍 匐[腹這いながら侵入する]しながら、向こう岸の流 線部が見えたら強行渡河とする。葦の中に進入せば第 一基点方向に対する黎明攻撃を準備するから、深入り せず部隊を終結し、第一中隊は前方、第二中隊は左、 第三中隊は右の方に対して警戒せよ。合い言葉は「山」 と「下」とする。その他の細部は省略す。

  ここで、「戦史叢書」より「戦闘開始直前の態勢」の関連部分の記述を転載する。

  「第四十一師団は情報参謀鈴木重雄少佐を長とする情報収集所を編成し、遠くネギル川以西アイタペ東飛行場付近の敵情地形の捜索に任じた。また、師団長はこれに続いて歩兵第二百三十七聨隊第一大隊(長 山下繁道少佐)をヤカムル付近に推進し、情報の収集に任じさせた。この大隊は、全般の関係上第二十師団長の指揮下に入り、情報の収集のみ第四十一師団長が区処することとなった。山下大隊は、六月二十六日頃ヤカムルに到着、直ちに将校斥候四組をアイタペ方面に派遣、その後、この部隊は七月初頭には、川中島中洲右岸付近に進出し、情報の収集を継続した。」

 「第四十一師団長は渡河攻撃の重要性に鑑み指揮所を戦場近くに推進して直接作戦を指揮することとし、また増成参謀を情報所長として坂東河畔に進出させ、情報収集にあたるとともに併せて歩兵第二百三十七聨隊長に対する師団命令の伝達とこれに基づく渡河攻撃の指導に任じさせた。

 増成参謀は七日午後出発し十日午前十時頃玉川[ヤカムル西方の川で日本名坂井川、連合国名ニューメン川の東支流と思われる]付近で第一大隊の位置に前進中の歩兵第二百三十七聨隊に追及し、師団命令を伝達した。次いで同参謀は聨隊長と同行し、その日の正午やや過ぎ坂井川西方五〇〇メートル付近で、第一大隊長山下少佐と会合し、ここで聨隊の攻撃計画を聴取した。その大要は次の通り。

一、方針

 聨隊は主力をもって坂東川、川中島付近左岸の敵を攻 撃した後、一挙に江東川の線に進出しネギル川方面の 敵に対する爾後の攻撃を準備する。主力方面の攻撃を たやすくするため、一部をもって海岸方面から坂東川 河口の敵を攻撃させ、これを牽制抑留させる。

二、要領

1攻撃は強襲による。

2攻撃準備位置の第一線は坂東川右岸の線、これにつく 時機は十六時以降とし、二十一時までに完了する。

3二十一時五十分重火器は一斉に攻撃を開始し、敵自動 火器を制圧する。

4二十二時渡河攻撃を開始し敵に突入する。

5敵に突入したならば第一線大隊は各一部をもって両側 に戦果を拡張し、主力の突入を掩護する。

6主力は河岸から更に約一キロ敢為[押し切る]前進し、
 

その付近にまず兵力を終結する。

7主力の終結が終了したならば、一挙に江東川の線に進 出し、同川の要点を占領して、ネギル川方面の敵情を 捜索する。

8海岸道方面の一部は極力射撃をもって当面の敵を牽制 抑留することとし、成し得れば主力に策応して逐次そ の地歩を西方に拡張する。」以上、「戦史叢書」より転載。

 このところで最も困難をきたしたことは暗夜に於ける密林内の部隊の誘導であった。日没時、重火器隊長は一部を陣地に残置して僅か一〇〇メートル後方の部隊の位置までの誘導であったが進路を誤り機関銃の二ケ分隊が二十時四十分頃陣地に到着したのみで他は不明。大隊砲は全然所在不明で「これはしまった」これでは攻撃には間に合わんと落胆。しかし二十一時半頃副官が漸く誘導して来たのでホッとした気持ちになった。

 この時、我が陣地の後方と聨隊本部との中間附近に敵は五、六発の煙弾を打込み、密林内は白煙轟々たり、「副官、瓦斯弾ではなかろうね」と言えば、副官は煙弾らしいと言う。「これはしまった、我が企図は暴露し位置は捕捉せられた。副官、主力を早く右のほうに移動せしめよ。ボヤボヤしていれば渡河前に全滅だ。」と言えば、副官はジャングルの中を部隊の方に走り、移動を始めた。

 大隊長は重火器が全部到着したので、ホッとした気持ちになったが、第一基点の敵側防火器が気になった。これは必ずや大隊の渡河を妨害する筈、これの制圧が渡河成否の鍵になると思い、昼間の標定に従い機関銃の一銃一銃の射向を側防火器に指向するごとく点検し、三銃目を見る最中に第二十師団方面は一斉に砲門を開き射撃を開始した。

 何だ、まだ後十数分ある筈なのにと思うのも束の間、左側の我が大隊砲も射撃を開始する。「コラ撃つのではない!」と大声を立てつつ大隊砲の前に走りより、軍刀を以て砲手の背嚢を叩くもこたえず。さらに機関銃もまた射撃を開始した。

 「コラ撃つのではない!」と射手の肩を叩くも何のその、我が隊が射撃を開始するや敵も一斉に射撃を開始し、万雷の一時に轟くが如くの光景であった。我が青きMGの曳光弾、敵の赤き曳光弾、青と赤との曳光弾が川中島の礫石に跳ね返り跳弾となって天に舞い上がるその光景は、東京両国の花火の如く壮観このうえもなく一時茫然としてこれを観る。

 ハッと我に返り川中島を見れば、彼我とも弾着近く、川中島を射撃している。「MG弾着低いぞ」と大声叱呼すれば、海岸方面の敵砲兵も一斉に射撃を開始した。

 殷々たる砲声、我が後方密林内にて炸裂する爆発音、大木の倒れる音、濛々たる黒煙、その光景は言語に絶し生地獄の如し。

 敵砲兵は逐次射程を縮め我が部隊の直後に炸裂する。危険この上もないので書記に対して部隊の攻撃前進を伝達する。書記が復唱も終わらない内にスルスルと敵の照明弾が連続打ち上げられ、坂東川一帯は昼を欺く明るさとなる。

 河中を見れば、大きな流木の横を副官皆藤中尉を先頭に大隊の大部は前進中である。大隊長が遅れては一生の恥だと思い書記、伝令を連れて敵弾雨飛の中、敵の照明下暴露して無我夢中で突進した。前岸に到着して右岸を見れば、第四中隊は前進方向を誤り川中島の方向へ前進するではないか、「第四中隊此処だぞ」と叫ぶも銃砲弾の為聞こえる由もなかった。敵はこれに集中砲火を浴びせて我が中隊は先頭より倒れる。大隊唯一の信頼する勇敢なる中隊長大武中尉以下殆ど全員が坂東川、川中島の小石を鮮血に染め全滅した。

 それでも、大隊の大部分は渡河を終ったようで、葦の中に集結を命じた。大隊が渡河を開始するや、河口方面の敵の射撃は逐次衰えたとはいえ、それでも敵砲兵の射撃は激烈を極め、砲弾は右岸及び河の中に炸裂する。十七夜の月は丸くジャングルの上に顔を現す、誰か言う「カモ」附近の敵は射撃を止めたと。中洲方面を見れば薄明りのもと三々五々黒影の走るのが見えるが、我が大隊の残余か聨隊主力かは不明であった。第二十師団は依然射撃を継続中であるが渡河の模様はない。

 大隊はアシの中に概ね集結したものの身の自由がきかず「副官、前のジャングルまで出ようではないか」と言いながら大隊は一団となり葦をバリバリ踏み倒してジャングルに出る。

 暗夜のことて方向を誤り「カモ」陣地の方向に前進したものと思える。時すでに黎明となりお互いの真黒な顔も見分けがつくようになったら伝令が敵の陣地だと言い、敵兵壕の中の掩葢[塹壕の上の覆い]の下を捜して敵の背嚢二つをさげて走って来る。他の兵も思い思い敵陣を掃討したようで、敵背嚢を提げてくるもの、携帯口糧の食い残りを食いつつ来る者、缶詰の空缶を持って来る者等様々であった。

 大隊は直ちに部隊を整理して四周に対する警戒を厳にする為、四〇〜五〇メートル前方の台に集結し、思い思い敵の糧抹を分け合って食い始める。平素の念願が叶い、敵の糧抹を得て、空腹を満たすには十分ではなかったが、将兵の喜びの顔は昨夜来の激戦を忘れたかのように始めてニコニコとなった。

 夜はすでに明け渡り我が後方を見れば、中村福一旗手が四、五名の護衛兵を伴い軍旗を棒してシャングルの中を前進してくる。「オイ中村中尉、軍旗は無事でよかったね、聨隊長はどうしたのだ」と尋ねると「聨隊主力附近は昨夜敵砲弾の集中射撃を被り部隊はバラバラになって聨隊長[の所在]は全然分からぬ」とのこと、「それは困った、戦死はしておられんだろうね」と言えば「戦死はしておられんと思います。」とのこと。

 「他の部隊の状況は分からんか」と問えば「相当の被害はあったけれども大部は渡河している。」とのことにて、本部指揮班を使用して聨隊の集結を始める。

 集合せるもの、聨隊の極く一部と、第一、第二大隊の概ね三分の二ぐらいであった。大隊長は二人ともおらぬ。「第二大隊長はどうした」と問えば「昨夜より分からぬ」とのこと。「第三大隊長はどうした」と問えば「聨隊長と一緒におられたけど敵の砲弾を受け何でも後の方に退かれたらしい。」という。

 部隊を集結させたが、聨隊長はおらぬ。ヨシ俺が聨隊を指揮すると言い、各中隊長に部下を掌握点検しつつ、兵は一時休息させ、我が大隊の一部を以て前面の敵情地形を偵察した。時に敵の敗残兵二名が前方に現れ、これを捕虜として取り調べた結果、豪軍第二十師団と言う。 何だ、今までは米軍と戦闘していると信じ切っていたが豪軍であったか。この野郎、友軍に大損害を与えた奴だ、殺してしまえと叫ぶ者あり。捕虜も死んだ真似をしていたが誰かが斬ろうとしたところ急に起き上がり、一目散に逃げ出した。四、五名の兵が射撃したが逃げて走る者には命中するものではなかった。

  本渡河攻撃に於いて特に印象に残っていることは次の五項である。

一、ジャングル内に於ける暗夜敵前に於いて静寂に部隊 を誘導することの困難さ。

二、軍はなぜ劣勢なる火力を以て強襲を決意実行したか疑問。当大隊は聨隊命令に違反して攻撃したけれど反って成功した。

三、聨大隊長が攻撃前河岸に進出して敵情地形を綿密に 偵察していたら、敵の砲撃ぐらいで部隊を離れて後退 することは無かったろうに惜しいことであった。

四、聨大隊共に誰も攻撃前進の命令を下したものはなか ったが、我が後方に敵の砲弾が炸裂し、敵の弾丸に依 って自然と部隊は前に押出され渡河した格好となった。

五、敵はよくもあれだけの弾丸を集めておった、故障も なくよく撃ったものだ。しかし案外弾丸は当たらなかった。  歩兵第二百三十七聨隊第一大隊戦闘要図(七月十日夜)

六、渡河後の状況

 十一日は部隊の整理、警戒、前方の捜索で河岸より約一キロ前方の台地で夜が明けた。十二日午前中であったと思う、師団より城参謀が連絡に来てくれた。

 「攻撃成功おめでとうございます。第二十師団方面は攻撃不成功に終り再興を準備中です。余り深入りせず前方、側方の敵情地形を捜索してください。」とのことにて、渡河攻撃の概要を説明し「多大の損害を出して申し訳ないが攻撃は成功した。師団長閣下に宜しく申し上げてくれ」と頼む。
 

「城参謀、実は十日夜より聨隊長と第二、第三大隊長が不明である。連絡中ではあるが未だ所在は分からぬ、困ったものだ」と言えば城参謀も「それは困った。戦死されたかな?軍旗が無事渡ったのに…」と慨嘆していた。 大隊は依然海岸方面及び江東川方向の敵情の捜索を継続する。十三日午後と記憶するが、聨隊長は第二、第三大隊長及び本部指揮班を伴い主力の位置に到着した。「戦死かと思っていたが良かった、どこにおられたのですか」と問えば「十日夜、聨隊本部附近は敵の集中砲火を浴びて部隊はバラバラとなり、第一線は後退したとのことで本部も後退したが、また前進しているとのことにて急進して来た。」とのことであった。ここで大隊の今までの戦況および敵情を報告する。

  ここで、「戦史叢書」より関連部分の記述を転載する。

 「この攻撃計画で、攻撃開始を奇襲によるか、強襲によるかは議論された問題であった。第十八軍はやむを得ない場合は強襲に移行することとして、極力奇襲の達成に努める意図であったが、第二十師団は奇襲の成功は困難と考え、当初から突入は強襲によることとしてこれを計画した。尚、前記計画では攻撃開始を二三〇〇[時間]としたが、その後これを二一五〇射撃開始、二二〇〇突入に修正した。

 この作戦について、田中軍参謀は戦後次のように回想している。「私はこの計画の起案者であったが、計画に一つの疑問を持っていた。それは中央を突破する計画である。前面の敵は三個大隊で広正面を占領し、たいしたことはない。しかし、初めから強襲中央突破という案に対して、これで良いだろうとかという疑問を感じていたのである。第二十師団長は非常に戦の上手な師団長であった。その師団長のところへ行って中央突破は良いでしょうかと言うと、戦闘としては余り良策ではないが、まあこれでやれるだろうということであった。」

 「第二十師団作戦経過要報」には、「攻撃開始ハ奇襲ヲ旨トスルモ、状況ニ依リ強襲ヲ予期ス」と記述してある。軍命令との関係からみて、当初の計画はおそらく奇襲を旨とする内容であったと考えられる。多分攻撃開始までに計画の一部が修正されたものであろう。

 一方、攻撃に関する軍命令の下達は各前線指令部に対し無線、有線で行われるが有線は被覆線の故障により実用的でなく、この頃は殆ど伝令によって命令を伝達していた。三日一五〇〇の軍命令の部隊到着状況は次の通りである。
 

 第二十師団指令部         三日午後八時

 第四十一師団指令部        七日朝

 第五十一師団指令部        不詳

 歩兵第六十六聨隊(龍井村)    四日午後

 第二輸送促進隊長(サルプ)    七日

 第三輸送促進隊長(ダンダヤ)   五日

 軍後方指令部(サルプ)      六日

 歩兵第二百三十七聨隊(大石村)  四日午後五時

 後述するように、この第四十一師団指令部に対する命令伝達の遅延がその後の攻撃に大きく影響するのである。当時第四十一師団指令部はマルジップにあり、軍が攻撃参加を予定した同師団の歩兵第二百三十七聨隊主力は大石村にあり、この間の行程は三日であった。利用すべき通信機関は皆無で、大石村から坂東川迄は更に二日行程を要した。第十八軍指令部としては、前掲のような命令伝達の遅延は予想しなかったであろうが、それにしても第四十一師団長の攻撃の指導は時間の余裕が殆どなく困難を伴うものと判断して、上記攻撃命令発行の翌日(七月四日)次の命令を下達して、歩兵第二百三十七聨隊長に取り敢えず所要の準備を実施させるよう直接処置した。

一、歩兵第二百三十七聨隊長ハ猛作戦命甲第五号ニ基ク 第四十一師団ノ攻撃部隊トシテ、取リ敢エズ所要ノ準 備ヲ実施シツツ師団長ノ後命ヲ待ツベシ。自今先遣大 隊ヲ其ノ指揮下ニ復帰セシム。(注 山下大隊は第二 十師団より第四十一師団に復帰させるということ)

二、第二十師団長ノ「パウプ」附近ノ敵攻撃ニ関スル第 四十一師団先遣部隊ニ対スル指揮ハ自今之ヲ解除ス。 下達法 筆記セルモノヲ交付。(猛作戦命甲第六号、 七月四日一二〇〇、木浦村)
 

実際にこの命令が聨隊に届いたのは、同聨隊付中村福一大尉の記述資料によれば、七日であった。

(攻撃準備位置への推進)

 第二十師団の諸部隊は、七月十日概ね隠密にその攻撃準備位置についたが、歩兵第七十八聨隊の一部が歩兵第八十聨隊の位置に誤って展開したため、午後六時頃行進交差を惹起して相当の混乱になった。第四十一師団の歩兵第二百三十七聨隊は聨隊長以下部隊主力が七月十日午後始めて戦場に到着したような状況で、先に第一線に進出していた第一大隊のほかは、未だ誰も坂東川の地形も見ていなかった。しかし其の攻撃準備につく動作は、日没に至まで極めて順調であった。ところが夜闇とともに急に行動が渋滞し聨隊の後尾は辛うじて戦闘に間に合う程度であった。

 師団参謀増成正一中佐は戦後の回想で「坂東川の攻撃は、師団においては歩兵第二百三十七聨隊山下大隊の周到な準備計画と、準備の余裕が殆ど無かったにも拘らず果敢であった同聨隊主力の行動に依って見事成功し、坂東川左岸の敵を突破して、十二日午後には坂西川右岸にまで到達した。もしこの時に師団が第二線の部隊なり予備隊を持っておったとしたら、その後の戦局は全く様相を異にしたに違いない。誠に惜しいことだったのだが、事実は師団長もその場にいなかったのである。」と述べている。(師団指令部は途中川の増水に遇ったりして前進が遅れ、なかなか到着できなかったのである。)

 また同参謀は当時の状況を「二百三十七聨隊はもっと早く河岸に進出していると思ったのに、途中で一緒になったのは意外だった。聨隊長にお聞きしてみると、焼米を作っていたというようなことであった。なぜ指揮官だけでも先に出ませんでしたかと申し上げたのであった。」と述べている。

 この第十八軍の「アイタペ戦」攻撃開始に大本営は参謀総長名で激励電を発信した。

 本十七日第十八軍ノ「アイタペ」攻撃開始並ビニ軍司令官ノ将兵ニ与ヘタル訓示ヲ上聞ニ達セリ。

 第十八軍ガ長期ニ亙リ補給ノ杜絶及敵ノ空陸海ヨリスル執拗ナル妨害ノ下、挙軍一体旺盛ナル企図心ヲ発揮シ凡有ル困難ヲ克服シテ長駆西進、以て「アイタペ」攻撃準備ヲ完整シ、今ヤ乾坤一擲ノ作戦ヲ遂行セントスルニ方リ、同軍将兵ノ勇戦敢闘ヲ祈ルト共ニ作戦目的達成ニ邁進セラレ、聖旨ニ副ヒ奉ランコトヲ期待シテ止マズ。 聨合艦隊は南方軍に次のように打電している。

 猛兵団ハ斯カル困難ナル環境裡ニ「アイタペ」攻撃ヲ決行スルヲ知リ、絶大ナル敬意ヲ表シ、全局作戦ノ為其ノ成功ヲ祈ル。右輝及猛兵団長ニ伝達ヲ乞フ。(注 猛兵団長は安達中将)

 この戦闘の相手になった連合軍側は、「米陸軍公刊戦史」で次のごとく述べている。

 「その夜二時頃、歩兵第二百三十七聨隊とこれまで戦闘に参加していなかった第二十師団の右翼隊の一部と思われる日本軍の攻撃が、G中隊の正面で開始された。この攻撃波はG中隊指揮所を超越し、広く分散した中隊の各拠点の多くを包囲した。少しの間、中隊地域で戦闘が継続したが、中隊は優勢な日本軍に長く抗し得なかった。中隊の組織が破壊され、通信連絡が分断され、その上、弾薬が欠乏し始めたので、中隊は退却を余儀なくされた。 中隊本部と第一小隊と火器小隊が北西に退却し、十一日の夜明け頃、第二大隊の指揮所に着いた。しかしこの指揮所も日本軍の砲迫の弾着を避けるため、北西五〇〇ヤードに移動することになった。重火器小隊の一部と第二、第三小隊の約二五名は北に退却した。数名はG中隊の陣地に退いた。

 E中隊の損害は戦死一〇名、負傷者約二〇名であった。

十一日の午前三時には日本軍は米軍陣地に約一、三〇〇ヤードの穴をあけていた。次の攻撃は、午前五時頃G中隊の左翼とF中隊の右翼で始まり、G中隊正面では夜明け以後まで続いた。

 この攻撃は日本軍の聨隊本部や残りの大隊、衛生機関、

砲兵部隊の渡河行動であったと思われる。」この米側記録の後半、特に午前三時頃における日本側の戦果の判定は注目すべきものである。米側も通信全般が分断され、大隊長は細部の状況が分からず、攻撃を受けている範囲も知ることができない状況であったとしている。」以上、「戦史叢書」より転載。

 第十八軍指令部の最も苦慮したことは軍需品の運搬であろう。当初、補給は海路、陸路を利用する計画を立てたが、海岸地帯は敵艦艇十隻余りが徘徊し、海路は断念せざるを得ず、また陸路は工兵隊の努力により、ウエワクより約六十キロ急造の自動車道が出来たが連日の大雨で泥沼となり、自動車の使用は不可能となった。ブーツに揚陸された軍需品は人力をもって担送せざるを得ず、このために、約七千人の兵站部隊と第四十一師団の主力、第二十師団の一部が使用された。


七、アイタペ、飢餓、極限状況

 ここで、歩兵二三八聨隊小隊長大塚邦夫少尉の「飢餓戦史」を転載する。「アイタペ戦」、「山南邀撃戦」を飢餓と極限状況における戦場心理の面で書かれており、原本は約九〇頁の長編であるが紙面の都合で十二頁に編集した。

  第二次世界大戦史上我々が経験した長い間の「飢餓と戦闘」は最も悲愴残酷であったと信じている。日本陸軍戦史のニューギニア戦はアイタペ作戦の玉砕的勇戦を綴り「以下軍は困難なる現地自活作戦に移行した」とたった一行で終わっている。

 この一行の中に死より数倍の苦痛と悲惨極まりなき飢餓の中に一粒の米もなく終戦まで戦い続けた飢餓戦史があるのだ。この間にいかに死の安易さに魅せられたか、また如何に生の苦痛かを嫌というほど経験したか。 

 

昭和十九年三月私はマダン東方ゴム河河口の海岸警備の任に当たっていた。原隊たる歩兵二三八聨隊の主力はラエ、サラモア、フィンシュハーン(一部参加)の戦闘に敗れマダンに向かい撤退中であった。その敗残兵の姿は一言にしていえば乞食の群れである、しかもひどい栄養失調者で悪魔と死神にとりつかれている乞食である。顔面は蒼白で目は窪み頭髪も髭も伸び放題、肉という肉は落ちて骨だけが体の全部のように見え、衣服は汚く汚れて破け、裸足の人、帽子を被らぬ者、銃を持たぬ人など凡そ軍隊というものではなかった。

 飢餓と疫病、酷暑、大湿地帯、大密林の中で更に敵機の銃爆下をともかく生き続けてマダンに到着したのである。「マダンに行けば食糧も薬品もあり必ず体力を回復させることができる」と信じつつあらゆる困苦を克服し虫の息で後退してきたのである。その期待は無残に破られ、マダンもまた敵機の銃爆下に晒され、食糧も薬品も欠乏し、休息する家屋すらない。多くの助かるべき人達はみすみす死ななければならないのだ。容赦なくマラリア蚊は彼等に熱病を伝染させ、死傷者は続出していた。 

四月以降輸送船は途絶え、遂に一粒の米も一服の薬も補給されない運命に追い込まれてしまった。もう必然的に自滅の運命を背負わされたのである。大湿地帯や大密林には我々を満足させる植物は殆ど無いし、もはや私自身この運命から絶対に逃避することは出来ない。かくしてラエ、サラモアよりマダンまでの撤退路は飢餓者の死体によって埋められ、マダンは毎日病死者が増えていった。

  大密林の細い路傍に野垂れ死にすれば銀蠅の群食によつて忽ち骨だけとなってしまう。路傍に小屋があるとその小屋には必ずといっていいほど衣服をまとった白骨が数体、側に水筒をおいて横たわっている。病気か衰弱して部隊と共に動けなくなった兵士達の最後の姿である。 十九年六月マダンよりウエワクに集結した軍の兵力はそれが全員病弱であったにしろ約数万を数えた。食糧は極端に欠乏し間もなくゼロになる日が計算された。軍はそれによってアイタペ作戦を決意し七月中旬を攻撃の日と定めた。このままで自滅するとしたら前面の敵を突破し包囲から脱出しなければならない。
 
 弾薬、食糧が無くとも昔やった肉弾がある「敵陣に肉弾をもって突入し、前の一人が斃れたら後の一人はその屍を踏み越えて一歩前進せよ、続いて同じ様にして敵陣地を突破せよ」これが猛号作戦方針であった。肉弾という最も高価な弾丸を一発の鉄片と取替えるという無謀な作戦は何と悲しきことだろう。「突入したらそこにある敵の食糧を取って食い、更にホランジアにまで前進せよ」ということで、兵士達はすでに敵の食糧にありつけることを夢見ていた。この作戦に失敗すればいずれ我々は自滅だ、どうしても勝たねばならない。死の不安はあったにしろアイタペ攻撃は「希望の夢」でもあった。

  七月初旬友軍はアイタペ攻撃に乾坤一擲の夢を託してウエワクを出発した。米を約二斗、塩、味噌各一升これで配給はもう無いと言われて皆最後がきたと思った。将兵は道を急いだが、昔一日十里も平気で行軍した健兵達は二里がやっとの病弱兵ばかりで予定の攻撃は遅延した。これを察知した敵は空海より猛烈な攻撃を開始、アイタペへの細い海岸道に弾丸の雨を降らせた。

 部隊の行動は昼間密林に退避し、夜間海岸道に出て前進するという状態であった。七月中旬の終り頃、それでもウエワク、アイタペ間に兵力を展開し肉弾の段列を敷き、敵陣地への死の突入を開始する態勢を整えた。敵はこれを迎えるべく万全の火器をその前面に準備し我々肉弾の突入を待っていたのである。

  七月下旬歩兵第二百三十七聨隊の主力は坂東川前面の敵を攻撃して第一線陣地を乗り越え、第二陣地に突入すべく次の河畔に進出した。この状況はいち早く後方の我々に伝わり敵弱しと思い、うまくいくらしいと喜んだ。しかし敵は海上から逆上陸を決行して二百三十七聨隊を忽ち包囲して徹底的な砲撃を開始した。部隊は玉砕覚悟で戦闘していた。やむを得ず軍は主力を奥地に移し、そこから一挙に海岸線まで押し出そうとする態勢に立て直すべく、我が部隊は第一線に招致された。

  私は聨隊砲のため行軍は主力より三日ずれることになっていたので戦友達とこの密林内で別れの挨拶を丁重にした。すでに全員死を予測していたので、それは一層悲壮な別辞であった。私たちの戦友は将校となり、殆ど小隊長となった。これが戦争への初陣なのであった。私自身死にたくないという気持ちでその晩前進を開始したのである。

 戦線にいると砲撃は激烈となり、砲弾は弛み無く炸裂し、海岸には死体が累々として横たわり、腐敗した悪臭は附近一帯に漂っていた。渡河点には魚雷艇が待ち伏せし海岸から少しでも奥地へ行けば湿地帯で動きがとれず砲を持った我々の行動は全く困難となってきた。本隊に遅れること五日にして前線に到着した我々はそこから前進する必要はなくなっていた。なぜなら、軍の主力は殆ど玉砕してしまったからである。

 密林に展開した軍の主力は、匍匐しながらじりじりと敵陣地に肉薄、七月末、未明本陣地に突撃。完全に準備された火器の前に現れた日本兵は将棋倒しのようにやられて屍の山を築き、附近を血の海に染めた。

  戦傷者のうめきは密林に響き、人々はかすかな呼吸をしながら「君が代」を歌い「海ゆかば」を口ずさみながら死んでいった。また後方にいた部隊は敵の大砲の間断なき弾雨の洗礼を浴びて一発の攻撃をすることもできずに殆ど全滅した。

 附近一帯の密林はもとの地形が一変するほどの大量の砲撃で、密集していた人間もろとも焦土化されてしまった。我が聨隊も軍旗と僅かな本部員が生き残り聨隊長までも間もなく戦死した。

  昭和十九年九月下旬、主食の米をすっかり食い尽くし、附近一帯のたべられそうな草木も殆ど取ってしまった我々は、サクサク(注 サゴ椰子の幹の皮をはぎ、その中の髄をこすつて粉にし漉して沈殿させた澱粉状のもので、乾燥させると携帯に便利。しかし、ジャングルの中での乾燥は陽の当たる所は米軍機から発見されるので容易ではない)だけに頼ってもおれず、またニワトリ川河口でただ餓死する日を待っているわけにもいかなかった。

 栄養失調の病弱者ばかりといえども未だ軍人であり戦士であった。残された使命は我々がこの島にいるという事実を敵に示して一兵たりともこの戦場に釘付けにし、一発でも余計に弾丸を消耗させるという作戦しかなかった。それにしても食物がなければどうしようもない。その食物を求めて聨隊は山間部へ移動することになった。その数僅か二〇〇名余りそれも他の部隊の人員を合流させての数である。

  私の肉体は栄養失調その極に達し、疲労困憊し、歩行さえ困難になっていたので、出発のその日、行程半ばにして密林内に転ぶように我が身を横たえてしまった。肉が落ちて背骨は土間につかえ仰向けに寝られない。棒のような手で胸を擦るとアバラ骨が一本一本むき出しになっていて起伏の強い洗濯板のようである。落伍者は死を意味する、大密林に食も薬もなくただ一人、枯れ木の如く朽ち果てるばかりだ。過ぎる密林で数多くの餓死者の哀れな腐敗の姿や、骸骨を見続けてきた私は今や自分の最後の辿るべき運命を知った。

 私は装備を捨てることに気が付いて、双眼鏡、時計、革脚半、革袋を捨てそしてやっと三メートル程歩いてまた密林に転がった。十分休んだ後、今度は背嚢を降ろして衣類、食器類、書類を捨ててまた歩いた。十メートル位で同じように足が進まずまた密林に横になる。私はこのところで捨てるものを更に考えた、これから命が幾日持つか分からないが最小限必要なものは何だろうか、一つ一つの品物はおのおの生活に必要なものではあるが、ことここに至れば運命をこのところで賭けねばならない、とにかく現在を生きねばならないのだ、土人のことを考えれば何とか生きられる。

  あれもこれも捨てて残ったものは天幕、飯盒、水筒、それに天幕を半分にした敷布だけだつた。今度は三十メートル位歩いたが駄目だつた、腰に軍人の魂たる軍刀がぶら下がっている。疲れ果て痩せ衰え瀕死の如き重病人たりとも軍刀だけはどうしても捨てる決心がつかない、武人たるものの最期は日本刀を抱いて勇ましい姿で死ぬことが唯一の死に方であると思うのである。

 死体が銀蠅に食い荒され、或いは腐敗しようと死に際だけは将校であることを誇示したいという気持ちなのであろうか、結局背嚢にくくり付けることにした。そして、一本の木を拾って杖にしてまた歩き出した。百メートル歩くのに二十分ぐらいかかったろう、そして十分ぐらい休んでまた百メートルとそれを数回繰り返して行くうちに今度は二百メートルと延ばして行けた。

  陽が傾いてとっぷり暮れると密林は完全に真っ暗となる。寂しさと悲しさに一人泣きながら、暗い道をそれでも歩き続けなければならない。やがて炬火をつけて迎えの当番兵が私を見つけてくれた時は一度に全身の力が抜けてしまった。

 彼に抱かれるようにして露営地についた時は夜半であったが、友人がカンフル注射を持ってきて射てといい、兵隊がヘビを半分もってきて食べろという。情けが身にしみてまた泣いた。

  昔健兵時は完全軍装で二時間あれば踏破したのに今やそれが一日の行程なのである。山間部の要点「トング」には敵の警戒兵が駐留している。部隊としてはこの敵を追い出すことが現地自活上絶対に必要であった。命令によって私以下十名が夜襲することになり、密林道を手探りで進み腹這いながら音をたてずに前進した。

 夜襲だとか斬込隊だとか勇ましいが、事実はまるで乞食の病人それもイザリのような恰好で敵地に入ってゆくだけのもので、火力も掩護射撃もゼロなのである。敵に発見されないでうまく奇襲すれば、敵が逃げてくれるだろうと思うことが唯一の頼みである。当時小銃弾の携行は一人約三十発のみで勿論補給は全く無く、戦闘に使う弾丸は一発としておろさかにできない状態であった。しかし一度敵に直面すれば三十数発の弾丸は十分とたたぬうちに撃ち尽してしまうだろう。弾丸を一発消耗することは我々の生命の灯を一刻早く消して行くのだ。

  今更逃げるわけにも行かず、眼前に敵の宿舎がすかして見えた時、私は死を覚悟することに躊躇しなかった。私の同僚の殆どは既に死んでいる、それに全てのことはもういずれにしても死ぬ運命にあるのだ。もっともこの頃はまだ気力があったから安易な死に決心がついたのであるが、心身共に弱り果てた終戦前の頃には反対に死にたくないと思い続けていたし、決して自ら死のうと考えたことは無かった。

 
夜が明けてしまえばそれで終りだ。私は「突っ込め」と号令をかけ兵舎めがけて走った。走ったといっても栄養失調なのでふらふらとのろのろ進んだ。皆一緒で一様であった。機関銃弾に体が蜂の巣のようになることを今か今かと思っていた。やがて兵舎の縁に辿り着いたがそこに誰も居なかった。敵は我々の夜襲を恐れて既に他へ退避していたのである。私は緊張し疲れ切っている肉体を感じつつ我が身の幸運さに感謝した。

  昭和二十年元旦、飢餓と弾雨の中に史上この上ない悲哀の中に正月を迎えた。しかし飢えつつ生きている我々にも一つの楽しみがあり夢がある。豚肉や鳥肉を食べることが楽しみであり米が夢である。この楽しみと夢に於いて明日を希望し、はかない将来に期待する。いかに激しい空襲や病気になろうとも、恐怖、悲哀、絶望、臨終にあっても、この意識が強いのである。

 
 祖国も故郷も肉親もそして聖戦も忠義も愛国もどうでもよい。死ぬ人は同じ様に「米が食べたい」と念じつつ近くの草をむしって口元に運ぶ。この夢に対する最後の動作なのだ。感傷も郷愁もない、本当の姿なのである。それでもやはりかすかな感傷は肉体の一部に残っている。それは南十字星や月を見て故郷を思い親に会いたいと思うことではない、同胞が哀れな姿で名も知れない誰もいないような密林で死んでゆくとき、我々は死場所について考えるのであった。

  「アイタペ」の玉砕が死ぬ場所として最もよい所であったと思う。そこには多数の仲間が一緒に死んでいる。山間の僻地で一人死んでゆくことは悲しく哀れに考えられるのである。そろそろ人間の域から動物になり下がってきている我々は、歩きながら何か食べる物はないかとキョロキョロし、イナゴやバッタなど取り次第、羽をむしって生で食べたりキノコやカラシ菜など見つけるとむしってまるで兎のように、生で食べ始める。また毛虫、トカゲ、ヘビを取って蛋白質を補い、木にいる油虫を取って脂肪分を摂取するなどの気を配りつつ、栄養失調から抜け出そうと努力した。しかしマラリアや胃腸疾患などで体は少しも良くならない、或る人がサントニンを持っていたので回虫駆除を試みたところ、十六匹の大きい虫が固まって降りた。私は棒の先でその虫を一匹づつ数えながら、驚きの余り暫くそこを離れなかった。

  昭和二十年二月私は聨隊旗手として重大な責任感に自らを励まし密林内を歩いていた。部隊内で旗手程悲壮な決心をするものはいないであろう。自分の死を犠牲にしても軍旗を守らねばならないという自覚はどんな場合でももち続けるのである。そして軍旗を無事に傷つけずにできたら、死は全くの光栄であると考えていたのである。 私が現在生きていることは逆にいえばあの苦しい飢餓の戦場で軍旗を死守するという自覚を持続したお陰だと思っている。死ぬほうが余程楽な環境に毎日を生きているということは、まことにもって想像を絶することである。これほど苦痛の戦場を生き延び得たことはあの世界大戦の中で我々だけであろうことは疑いないと信じている。紙と鉛筆があってその頃を日誌に綴れたら、この苦しい戦いを深刻に報告できるのだがそれができないのはまことに悲しいことである。

  終戦後、幾多の探検記と戦記を読んでみたがこれほど悪い状況下を経験していないのである。本当にニューギニアの戦場は酷かったとよく人に言うが聞く人はさほどに思っていないしまた想像がつくものではない。死地に踏み込んでいる場合少しの時と場処が生死を分かれさせる重大な運命をもっている。

 部落へ入れば、椰子やパパイヤの実があり、小さい農園があってバナナやいろいろのイモがあるので、どうにか腹を満たすことができる。しかしその畑もほんの小さいもので百名位が食べたら一日位で終わってしまう。まこと我々は土人達の重要な食物の全てを食べて彷徨っていたのである。

 従って土人達は我々に非常な憎悪を持ちだした。同僚の川村少尉の一行六名は、小部落の一戸の家で食事をつくっている夕刻、突然手榴弾を投げ込まれ、あっという間に三名が即死、二名が傷ついたし歩哨に立ちながらシラミを取っていた為に狙撃されて戦死した者、イモを掘っていた為殺された者、密林で部隊と離れて休んでいた為に槍で殺された者など多かった。

  私とてその経験は何度もあった。その時、疲れ切っている肉体に霊感が電気のような速度をもって動作を命ずるのである。この霊感が働かないと、勿論あっけなく殺されていると思う。やっと歩いている肉体が突然の近接射撃に、瞬間ばたりと倒れるとそのままごろごろと転がって射道から外れたり、見えない手榴弾の落下点を知って爆破寸前に伏せたり、自分で不思議な程の力を感ずるのである。これを一口に奇跡と言ったり運がよいというが、私は一つに霊感の力があってそれが自分自身の力であると信じている。俗に精神力という。敵襲に家の中で逃げ遅れた瞬間に私は敵前十メートルの弾雨の中を横切らねばならないことを知った。そしてそれを実行する方法を咄嗟に決定した。私はそのような時少しも沈着でも勇敢でもない。ただ、私の魂、即ち霊感の命ずるままに肉体が行動しそれが常に適切であり安全であり完全な結果であっただけである。

  従って霊感は正しく判断し予感すると思う。その霊感に助けられつつ行動して生きて来られたのである。そしてこれは誰でもが持っている。では何故誰もがその霊感と霊力で生きられなかったのか、他の人間が作る作戦上の命令に依って、この霊感の命令が抹殺されてしまうからである。霊感が行っては駄目だと囁いても、行かねばならぬ命令が絶対的な強制力を持ってのしかかってくるからである。その時それらの人は、もう駄目だと予感し、会話や動作の中に出すものである。結果はその予感通り嫌な事実として表れてくる。戦争は常に人間の本態(霊感)に矛盾する事柄の連続であり、その結果は死への運命につながることである。

 昼間の疲労と飢餓に歩き続けた人間が、ある地点に辿りついた時全肉体と心魂を傾けつくしたためポッコリ死んでしまうのだ。その人間は途中歩いている時一つの夢によって現実を忘れてしまうようだ。危険地帯にある時人間は誰でもそこから脱出して助かりたいと願う。死の孤独を嫌悪した人間は全能全力をもって他の人と行動を共に続けていく。

 もう自分でないと思う肉体だけが霊力によって動いているだけなのだ。そのとき死期に近づいている人間は、本当に自分の肉体と別れてしまうものだ。本能により霊力の力が歩行させているだけの人間となってしまう。たしかにその時、それらの人は美しい夢を見ながら歩いているに違いない。そして宿営地についた時、その地が天国であるように思いながら死んでゆくのであろう。

  このような人々は数多く、口の中には側の草をむしって口元まで運んで死んでいる。ある人は一目でさえこの世の人間でないと思う肉体で歩行を続けて宿営地に辿り着き、そのまま横になり水をうまそうに飲んで眠り、そのまま知らぬ間に死んでいった。よくそこまで生き延びられたかと不思議でならない。人間本能の霊力の力なのだろう。しかし我々にはまだ肉体の力が残っているのだ。今宵も明日も生の不安に絶えず脅かされていることも忘れて朝まで眠ってしまう。

 二十年四月頃、我々は密林内を彷徨い敵の包囲網を脱しつつ次第に第四十一師団司令部の方向に後退していった。部隊は毎日居所を変えて行動を隠し、一声たりとも出さないで密林内に姿を没していたが、敵の進出は活発で、部隊の移動は困難となり、つとめて道を避けて谷間に降りたり峻嶮な山腹を登ったりして、密林を踏み分けて後退した。

 昼間上空に蔽いのないところを通過するときは敵機を用心して急いで通らなくてはならない。敵機に見つかるとすぐ急降下して銃爆撃してくる。その撃ちガラが頭の上にばらばら落ちてきて鉄帽がいるほどである。また、敵の観測機は頭上の木すれすれに低空でのろのろと飛んで見張っているのでとても覆い隠せるものではない。したがつてその観測機に無線で誘導された米軍の砲撃は実に正確であった。昼間はもちろん、夜でも月のある間は炊事ができない。煙でもあげようものなら大変である。月の入るのを待って一日分を炊くのである。たいてい午前二時頃炊いている。

 
明るくなるとまた恐怖の沈黙と後退が続く。雨に叩かれ、ぬかるみに足をとられ、密林の枝に阻まれつつ死地を脱出しようと歩き続ける。雨中の露営は背中に水の布団を敷くようであるし、傾斜地では滑らないように足先に木を置く等して眠るのであるが、まともに眠ることさえ不安な毎夜が続き後退を繰り返すのである。それでもなんとか敵にきずかれないようなところを選び、ぬかるみも谷間も軍旗を肩に負いながら、ある時は両手で抱きながら歩き続けていた。

  密林中で退避中、兵隊は直ぐシラミ取りを始めるが私は何時奇襲されてもよいように、緊張してそんな余裕は無かった。私の褌の縫目のところを見つめると、シラミの卵が数珠のように連なって、思わず「ゾーッ」としたが、しばらく飼っておくより仕方なかった。

 

私の近くで「パサッ」という何か落下した音が聞こえた。すかさず「手榴弾だぞ」と全員に注意した。いよいよ私の最期だと確信した。私は満足な快い気分が全身に漲っているのを知ることができた。それは軍旗という神聖視していたものをこの瞬間に完全に守護できるからだと考えたからである。
  

手榴弾は爆発した。「やられたな」と思う間もなく後方の山頂から狙撃されていることに気が付いた。石田兵長が「どうですか」と駆け寄ってきた。T伍長が「どうします、担ぎましょうか」と言ってくれたが、私は自決をする決心をして「軍旗は大丈夫だ、これだけ持って行け」と命じた。軍旗を渡すと私は気を落として泣いた。「もうこれで終りだ。」と思ったからである。このころ傷を手当てする一巻の包帯も、一滴の消毒水も、傷薬も、注射器も全くなかったからである。

 一度弾傷すれば忽ちガスが全身にひろがりガスエソを起こし痛み苦しみつつ死ぬのである。幾人もの戦傷者がこの状態で死んだことであろう。ガス血清の注射液さえあれば未然に防げるのに、みすみす死ななければならない。結局受傷すれば自決の途あるのみであった。

 この頃もし手術を要する盲腸炎や中耳炎などになったり、伝染病等の注射や服薬を要する病気になっても同じく死は確実視され、なんの手当ても施すこともなく死期を待って死んでしまう。従って重患者が出た場合それらの人々を運ぶことは到底不可能であり、誰一人として他人の荷物さえ運ぶことができない人々ばかりである。 

 自分自身が歩けなくなってきたら、もうそれで助けてくれる者はない。ただ一人密林に、或いは路傍に捨て子のように置いて行かれる。それらの人は食もなく、住もなく、ただ一人落ちた枯れ葉が腐っていくように死んで行く。泥沼に足をとられ、木の根にうつぶせし、あるいは水溜まりに首をつき込んで息絶えているのである。清水がわき出る川に行くとどこの部隊の英霊か二、三体、全裸で水ぶくれになって腐爛し、流水に顔を伏せているのである。最後の水を飲んで遷化したのであろう。誰知る者もなく、名も分からない処で、寂しく死んでしまうのである。

  一個の人間として、死に場所はたしかに気にかかる。人間は死ぬ時でも自分の最期を誰かに見ておいてもらいたいものだ。何時何処で、どんなふうにして死んだかを自分が知っている人々に認めてもらいたいと願う。それは名を残そうとする名誉欲ではない。ただ自分が死んだことを生きている同じ人間に知ってもらいたいだけである。従って死期を予期したときほとんどの人は、自決を図っている。部隊が移動しようとする時重患者は、殆ど自決してしまう。

 K大尉は生存の人々に挨拶し短銃を借りて自決し、H伍長は破傷風になった途端、副官に依頼して墓穴を掘ってもらい「君が代」を唄い万歳三唱し戦友の力を借りて自決し、I少尉は自ら穴を掘ってその中に入り手榴弾で自決する。またK伍長も破傷風になって七転八倒のうめきを発しているがどうすることもできない。我々も受傷すればあのようになって死ぬのだと思うだけである。

 K伍長は「俺を殺してくれ」と頼む、苦しむより早く一思いに死んだ方がよいのだと誰もが考えている。やがて近くに穴が掘られK伍長はその中に寝かされた。いろいろな戦友が別れに集まった。彼は皆に「お世話になりました」と別れを告げ、苦しいうめき声の中から君が代を歌い天皇陛下万歳を叫んだ。にぶい銃声が静かな密林にこだまして一人の命がまた消えた。

 その晩K大尉も短銃で自決した。K大尉は下痢で動けなくなってしまい部隊が明朝この部落を出発するのを知って自決したのである。残されて助かる見込みがないことを知ったとき、人間は、やはり知っている人達の見ているところで死にたいのである。

 しかし、捕虜のチャンスがあるのではなかったかと今考えないではないが、あのニューギニアの重畳たる山間部の密林地帯で、どの程度豪軍に発見され助けられたか疑問である。恐らく敵意を抱く土人達に多くは殺される運命にあったと考える。それらの事実を知っていればこそ自決してしまうのである。

 さて私は今こそ私自身、自決するときがきたと考えた。

今まで少しも考えることも思うこともなかった両親のことが走馬燈のように脳裏をかすめた。部隊は殆ど前進していて私のところには三人の兵隊しかいない、そこへ本松軍医が私の体を点検し「なんだこんなの傷じゃない」と怒鳴った。薬もなにもない軍医にとって残された治療は言葉が唯一の薬であった。私は「こんなの」という言葉に力づけられて立上がり歩行を始めることができた。その後一ケ月間痛みがあって、ガスエソの心配をしたが何もなく終わった。

  昭和二十年六月の現在弱々しくもなお生命を持ち堪えていた。現地物資に漸く慣れてきたとはいえ、マラリアの熱病は常に肉体を蝕み、時々食べられる鳥や豚の肉類、或いは椰子の実や魚類から取る栄養分の蓄積を忽ち奪い、そのあげく大事な血液を多量に食ってしまうのである。 四〇度以上の高熱は数日も上がり放しで下がらず、気の弱い者は発狂するし一回毎に体力の消耗は甚だしく、これを月二、三回と繰り返し発熱していたので、生き続けられたことはこれだけでもまさに奇跡なのである。

 特にマラリアでおこる黒水熱は尿が醤油のような黒褐色になり、ついに尿が出なくなって、アッという間に死亡する。また、患者が意識を失うと、蠅が情容赦もなく口中に産卵し、やがて蛆虫がぞろぞろと口や鼻から出てきて臨終である。蛆も時には役に立つ。蛆療法である。いつの間にか患者の傷に蛆虫が発生して、汚い分泌物を食べてくれるので傷がきれいになっていくのである。体力のある者は蛆に助けられ、生きる力のない者は蛆に殺されたのである。

 マラリアなどの熱帯病や極端な栄養失調、おまけに毎日隙きあらばと構えている弾丸は我々を狙って飛んでくるし、空からは絶えず飛行機が爆撃し殺そうとしている。 人間はどの程度まで生きられるかの実験ならまだ希望はある、もし万が一仮死したとしても手当てする人々がいるからだ。我々の生命は倒れたら最後、未知な密林に屍をさらし、埋めてくれる者もなく、銀蠅や蛆の餌食にまかせて、永遠に放り出されるのだ。

 心もすっかり疲れ切っている。判断もできないし、人間の道徳性も、愛情も、ヒューマニティも、ありとあらゆる精神要素は失われている。人間の善良性はすり減らされて只本能のみ残っているのだ。それは「餓鬼的根性」だ「動物的本能」だ「悪魔的本能」だ。

 動物にはまだまだ美しい本能がある。しかし、その頃の我々には美しさも善良さもない。それは只食う本能と、死にたくないという本能があるだけだ。食う為に、生きる為に、動物的人間はそれこそ悪魔的手段をも選ぶことがある。私は恐ろしいことだと思うことがしばしばあった。食べる物は主に土人達の物であり、彼等の家を荒廃させることは知らぬうちに犯している大罪である。

 我々は何と汚い、だらしのない人種だと思う程、立つ鳥は後を汚し、彼等の一生の財産たる食物を食ったりしている。同胞の死に対しては埋めることさえできない。 その死者の靴、雑袋を拝借し生存者は自分のものとして利用し、なお生きようとしている。鳥や蛇を取っても、一人が食べるのが精一杯で、病人に薬一つも与えられることもなく、ただ自分そのものの本能のみに於いて生きている。

  海岸地帯では食料が完全に欠乏した時、同胞間で食料争奪戦をやり友軍同志で殺し合をしたとも言われている。我々山間部に後退作戦を繰り返している人々はその度にどうにか食物を取ることができたが、もう戦う勇気などは爪の垢程もなかった。長い間の逃避戦から漸く敵中を脱し、六月には後方の宣撫工作ができている土人部落まで到着できた。

 私はある日、土人と話をした。今まで日本のことや故郷や肉親のことなど思い出したり、ゆっくり考えたりしたことはなかったが、平和な土人との生活に、思い出してしまったのである。しかしこの気持ちは最も危険なのである。気を許したら忽ち死が待っているからだ。小屋に帰ると感傷も感慨も消し飛ばしてしまう現実な悲惨な病人と生活が待っている。

 「私はまだ生き続けるのだ」と自分にいい聞かした。隣に横になっている者と何時しか、うまいものを食べたいと話し合う。故郷の家で、大きい魚を切っている魚屋が惜し気もなく大きな頭を川に捨てているのが食べたい。秋になると稲田の中にイナゴがたくさん飛んでいたし、川の中には魚や蛙がたくさんいた。

 すべて思い出されてくる。トンカツや寿司やビフテキなど高級品は今の現実にとって程遠いものだと考えている。明日は川へいって蛙や魚を探しに行こう、密林へ入って油虫や毛虫を取りに行こうと考える。

 凡そ過去の戦争の悲惨さから離れて漸く各人の胸底には人間の平和さから、郷愁などという人間の心が蘇ってきているのだ。

 戦争さえなければ幸福なのだ。人間は殺し合いさえしなければ、それだけで十分に幸福なのだ。満足な食物がなくても人間は幸福なのだ。郷愁や感傷的な気持ちを持つことさえ幸福なのだ。

 その平和な中に死ぬなら満足なのである。戦争の中で死ぬのはとても悲しい。限りなく死の哀れさを覚えるのは戦場の死である。

 夜更けて部屋が静かになってくると、遠くの部落で土人が踊っている、彼等は平和なのだ。文化の恩恵に浴していない彼等は平和なのだ。前線には他の友軍が敵と接触してくれたので我々は山中で初めて土人たちと話し合い、彼等の家を借り、彼等が分けてくれる食料を食べる生活が始まった。

  その量は僅かであったが、我々はそれで我慢しなければならなかった。」以上、大塚少尉の手記より転載。
再び、坂東川の主戦場に移る。


八、海岸方面の攻撃

 聨隊長は十五日海岸方面の敵を攻撃するに決し、第一大隊を以て「テレプ」(江東川河口)、第二大隊を以て「アナモ」(坂西川河口)の敵を攻撃する如く命ぜらる。 大隊はひとまず江東川を渡河してサゴ椰子の繁茂せる密林内に遮蔽して敵情の偵察を実施する。十四日夜、猛烈なる降雨で捜索も意のまなにならず攻撃を一日延期せざるを得ない状況となった。

 明けて十五日、江東川河口及び「テレプ」附近の敵情を捜索すべく斥候を派遣すると、江東川に沿い派遣した下士官斥候が急ぎ帰ってきて報告するには、「敵の大軍は江東川の道路に沿い上流に向かって前進中である、もうスグそこに来る。」とのこと。大隊はひとまず奥のほうに退避遮蔽することにし移動を開始したが、同時に敵も我が前方に現れた。

 これに対し大隊本部指揮班は独断攻撃を開始した。敵も急射を受け周章狼狽、自動小銃を乱射したので、本部の優秀なる書記二名が戦死した。当時敵は海岸方面より「アイタペ」方向に退却中と判断していたが、敵は第二十師団正面に増加しつつあった。

  九、坂東川の反転攻撃

 ここにおいて聨隊は、ひとまず海岸道方面の攻撃を中止し、坂東川左岸の敵を攻撃して渡河点を打開し、師団主力との連絡を確保することになった。前回怒濤の勢いをもって突破した渡河点を今度は逆に敵後方から攻撃するのである。

 敵は十六日頃より坂東川左岸の旧陣地に復帰し、逐次第二十師団方面に兵力を増加中で、二十日頃には左岸を完全に占領し、さらに陣地を極度に増強した模様であった。聨隊長は二十二日夜、聨隊の全力を挙げてこれを攻撃することを決し、第一大隊は右第一線、第三大隊は左第一線として攻撃を準備する。所定の位置に到着したのが午前十一時頃と記憶する。

 しかし、ここで困ったことは偵察並びに攻撃準備に要する時間が短かったことであった。聨隊長に「二日間位の余裕がなければ偵察並びに攻撃準備はできない、この様な短時間の準備では成功させる自信がない。」と言えば、聨隊長は「日を延ばせば敵はなお陣地を増強するだろう。」とのこと。

 大隊は万難を排して偵察を実施する。夕刻迄には大体正面の敵情は判明したものの、大隊長自ら第一線に進出して敵情地形を偵察して中隊長を指導する時間の余裕が全くなかった。

 夕刻迄に判明した敵陣地の状況は左の如し。

一、敵は前、後両正面に亘って陣地を構築している。散兵壕には敵を認めない。

二、各陣地は殆ど掩葢銃座である。

三、陣地前方は清掃されその幅は四十メートル位である。

四、敵の監視兵は銃座の上に立っている。

五、敵は天幕を張ってその中に休んでいる。

六、所々にアンテナがある。

七、敵飛行機は盛んに物量を投下している。

 また、一軒屋方向に派遣せる将校斥候某少尉(名前を思い出せない)の報告によれば、一軒屋方面は草原で夜間の通過は困難、敵前二十メートル迄接近し敵陣を視れば、掩葢銃座は二段になっている。銃は下の段にあって上の穴は展望孔らしい、肉弾攻撃は下の銃眼を可とす。斥候長は睾丸を撃たれ歩行出来ず自決する、と悲壮なる報告をもたらす。

 大隊長は日没前各中隊長、配属山砲中隊長を集め黎明攻撃に関する命令を下達す。その要旨

一、大隊は黎明を期し(イ)(ロ)の陣地を奪取して坂  東川を渡河す。

二、第一中隊は草原とジャングルの接際部に沿い前進し  (イ)の前方五〇メートル附近に近接、少くも三肉  迫攻撃班を編成し(イ)を攻撃、奪取後は上流方向  に陣地を確保。

三、第二中隊は小流に沿い前進、(ロ)陣地前五〇メートル附近に近接し少くも三肉迫攻撃班を編成し(ロ) を攻撃、奪取後は下流方向に対し陣地を確保。

四、山砲中隊(砲は一門)小流の向側に陣地を占領し一軒屋方向に対し敵の出撃に対する射撃準備。その他略す。

 大隊長として命令は下達したものの敵情地形の偵察に時間がなく、攻撃に不安を感じつつ部隊を出発させるということは実に後ろ髪を引かるる思いであった。

 夜十一時頃であったと思う。山砲中隊が陣地侵入し架尾を締めると敵はその音に驚き直ちに射撃を開始した。第一中隊の前進は容易ではなかったが、しかし暫くすると射撃は衰えた。黎明近づくと第二中隊は攻撃を開始したもののようで、銃声と手榴弾の爆発音が盛んになった。第一中隊は直前に陣地があると言っていたが、夜が明けてみれば陣地ではなく実は倒木であった、これが判明するや第一中隊も前進を開始した。

 天明後、第二中隊長西川中尉より「第二中隊は払暁

[日の出直前]敵のトーチカ二を奪取、引続き攻撃中、敵の抵抗は頑強にして戦死多し、中隊長自ら先頭にありて攻撃中」の報告を受ける。

 第三大隊方面も攻撃に移ったもののようで銃声が盛んであった。書記を第三大隊に派遣して、「第二中隊は敵陣に突入その一角を占領し、引続き攻撃中。第三大隊右翼方面突撃せよ。」と連絡したところ、書記が帰って言うには、第三大隊は攻撃を中止して、小流の線に集結しているとのことであった。

 
第二中隊は全滅する恐れがあり、聨隊長に「第二大隊を中間に突込んで突撃せしめよと言え」と怒号する。

 午前十時頃、敵の五、六十名位の部隊が連続して(ロ)

の陣地と大隊本部中間を下流に向い移動を開始するのが林間より手にとるように見える。「副官、敵は退却を開始した、どれ位の敵か書記に良く見せておけ」と命ず。その数二〇〇を下らなかった。

 十一時頃、敵の大部隊が我が右翼に向い攻撃前進中との報告を受けた。直ちに山砲に零距離射撃を命じ、第三中隊を山脚に派遣して大隊の右翼を掩護させた。敵は自動小銃を乱射し来るが積極的でなく、第三中隊は依然山脚を確保している。

 我が第一、第二中隊との連絡は途絶した。大隊長の手許の兵力は副官、書記、伝令五、六名であった。敵の飛行機は低空飛来し草原に盛んに補給の物量を投下している。

 昼過ぎと記憶するが、聨隊本部の書記が来て、次の命令を伝達した。「当面の敵は頑強にして戦闘意の如く進展せず、聨隊は攻撃を中止し戦場を離脱して南方に転進する。第一大隊は部隊を集結して聨隊本部の位置に集合せよ。」との要旨であった。

 「馬鹿なことを言うな。大隊は三面敵の包囲を受け、全兵力を第一線に突っ込み、第一、第二中隊は殆ど全滅だ。大隊はこのところで玉砕する。聨隊長も第一線に出て、軍旗と共に突撃せよと言え。」と怒号した。

 しかし爾後、攻撃は進展せず、やむなく涙をのんで薄暮[日没直後]に乗じ兵力を集結した。第二中隊全滅。第一中隊殆ど全滅、生存者僅かに四、五名。第三中隊、機関銃、大隊砲、約半数。合計約六〇名足らずとなった。 つまり、第二中隊だけは敵の一角を突破して河岸に達し、北方海岸方向に戦果を拡張、これに増援協力しようと他の中隊も努力したが、敵砲火に前進を阻止されついに果たせず。第二中隊は孤軍奮闘、夜明けと共に敵の砲爆撃は一斉に同中隊に集中、正午過ぎまで休みなく続いた。頑強に渡河点を固守しようとした第二中隊将兵もろとも、地形を一変するに至まで米軍が猛爆撃を加えたので敵の圧倒的な物量のまえに最後は沈黙するのやむなきに至ったのである。砲爆撃のあとは一面清野と化して、ついに一兵も還らず坂東川の河岸に玉砕した。

 何故、本攻撃が不成功に終ったか。

一、攻撃準備の時間が無かったこと。

二、左第一線たる第三大隊が余りにも早く攻撃を断念し  て戦場を離脱し大隊が孤立に陥ったこと。の二点に尽きる。

 想えば昭和十八年四月、ウエワク上陸当時の我が第一大隊の兵力は約一、二〇〇名、その後の戦闘で漸減し、七月九日坂東川渡河開始時の兵力は約三〇〇名であった。 坂東川、川中島の戦闘に於いて第四中隊を完全に失い、他の中隊も約三分の一までの兵員になった。

 さらに、今また第一、第二中隊を失いその他の部隊は半減以下となる。部下の死体を戦場に残し万感胸に迫りつつ、「豪軍よ、よく戦ってくれた、部下の死体を丁寧に埋めてくれ。」と、独り言を言いながら僅かばかりの部下を率い、夜間聨隊本部の位置に集結し南方目指して転進する。

 この転進で特筆すべきことは、機関銃中隊と速射砲中隊将兵の驚異的な意志と闘魂であった。糧抹は尽き果ててすでに二週間以上、飢餓と疲労のため自らの体ひとつ運ぶにも強固な意志力を必要とした極限状況のなかで、両中隊はその火器を分解し、これを肩にして機動を完遂したのである。絶大な精神力が不可能を可能にしたのであった。

  十、猛号作戦の中止と撤退作戦

 軍は八月に入り五六高地の敵に対し、二度の総攻撃でも攻略することができなかった。いまや相次ぐ戦闘により兵員の損耗が甚だしく、糧抹も尽き、弾薬も少なく、補給の方途もないことから、三日の夜間攻撃を最後に翌四日猛号作戦の中止を発令、ウエワク方面に諸隊を撤することに決した。

 七月十日から二十数日間、悪戦苦闘を重ね、幾多の尊い血潮を流した坂東川をあとに撤退をはじめる。撤退途中の七日正午、坂井川左岸に達したとき、南下してきた約三〇〇名の有力な敵と密林内で遭遇し、熾烈な砲爆撃の下で激戦を展開。ジャングル内の遭遇戦は、近々十メートル以内で敵と確認してはじめて戦闘が開始された。 激戦のさなかで機関銃中隊長は、坂井川右岸の高地から敵の左岸を痛撃できると判断し、万難を排して搬送してきた機関銃で敵の翼側を猛謝した。正面からの攻撃と翼側の機関銃に脅威を感じた敵はついに後退した。

 
そのあと、転進を続け十日には約一ケ月前攻撃前進を開始した大石村に達し、ここにアイタペ攻撃作戦は終了した。

 この時、掌握できた聨隊全兵員は約七〇〇名で戦力は五分の一以下に低下しており、三個中隊が完全に消滅したほか損耗した兵器弾薬は極めて多数であった。

 ここで、「戦史叢書」より関連部分の記述を転載する。

 「渡河点確保を命ぜられた歩兵第二百三十九聨隊第一大隊(原田大隊)も、七月十六日朝には河岸に到着し、十六日から十七日まで東方から攻撃したが成功しなかった。原田少佐は十六日の戦闘で戦死した。

 西岸の歩兵第二百三十七聨隊第三大隊は十七日夜から十八日朝にかけて更に攻撃を続行し、一時は河岸の一部を解放したが、結局は米軍に撃退された。この結果、歩兵第二百三十七聨隊と坂東川東岸の師団主力方面との連絡はその後完全に途絶するのである。」

 「米陸軍公刊戦史」の記録は、次のようになっている。

「七月十六日午前八時、米第一一二騎兵連隊のE中隊が宿営地から南へ移動を始めると同時に、ドリヌモア(坂東)川の東西両岸の日本軍陣地から猛烈な射撃を受けた。米軍の戦線によって歩兵第二百三十七聨隊が遮断される危険を知った日本軍は、渡河点の解放に努力を集中してきた。[中略]一フィートごとの激しい戦いであった。 午後三時頃、米軍の第一線は南部隊の戦線に到着した。移動間の日本軍の戦死者は約四〇名、間隙の大部は閉塞され、北方の米軍部隊は夜間のため陣地占領に移った。 翌十七日、川の両岸の日本軍はこの間隙を保持するための努力を続けていた。このため更に四十五名の日本兵が戦死したが、間隙の残り五〇〇ヤードを保持し続けた。十七日も遅く、暫くの間、間隙が閉鎖されたが、その夜のうちに、たぶん歩兵第二百三十七聨隊の部隊によってであろう約三〇〇ヤードにわたって再開された。この最後の小間隙は、十八日朝米一二四歩兵連隊によって閉鎖された。

 安達将軍はなおもドリヌモア川を越えて補給品を送るために、川中島附近で渡河点を再開し、米軍を分断する計画を持ち続けていた。七月二十一日夜、米一二四連隊はドリヌモア川の東方より相当激しい迫撃砲、機関銃、小銃の射撃をうけた。最初の攻撃は最後には銃剣突撃によって撃退された。さらに日本軍の歩兵第二百三十九聨隊第一大隊が米軍を東から攻撃して川を渡ろうとしたので次々に戦闘が続いた。

 二十二日の日没前、米一二三連隊第三大隊は地区内に新らしい日本兵の死体一五五を数えた。渡河点を再開するため歩兵第二百三十九聨隊第一大隊の攻撃はさらに二十三日夜も数回にわたって行われた。

 しかしこれらの努力は米軍の河岸部隊とアナモ附近海岸の野砲兵大隊の砲火によって失敗に終わった。翌二十四日夜、この戦場でもう一度小戦があったが、この努力を最後として第十八軍は渡河点再開の企図を放棄した。」 攻撃兵団に対する補給持続の限度は、軍司令官以下関係者の念頭を去らない問題であった。

 

吉原軍参謀長は戦後、次のように回想している。

「私は補給の見地より七月末日迄にアイタペ攻撃を終止し、軍を自活邀撃態勢に移すの必要を力説した。軍司令官以下、幕僚皆その点については十分に承知しあるも、如何せん現在奈良大佐の率いる奈良部隊(注 歩兵第二百三十七聨隊)が敵陣深く進攻し現在行方不明、敵陣内に突入した部隊を集結せしむるには、是が非でもアフアの渡河点を奪取せねばならぬ。結局戦闘打ち切りのための攻撃に他ならずとの意見で、これには同意せざねを得なかった。あの堅固なアフア陣地を奪取し得べきか、一抹の不安もあったが誰でも敵陣内に孤立する友軍を救出するは目下の急務にして、軍の攻撃再興は、今度こそ文字どおりの決戦で、死活の分岐点である。軍司令官の眉宇にもその決意歴然たるものがあった。」

 第四十一師団参謀部付星野一雄大尉の手記より。

「作戦参謀と坂東川の対岸に前進している第二十師団の戦闘指令所に連絡に行くことになった。坂東川の渡河点にきたら上空を敵の観測機がのろのろと飛んで見張っている。飛び去るのを待って急いで対岸に渡ったところ、日本兵の屍が数体倒れていた。渡河するところを観測機に見つけられ砲弾でやられたものであろう。

 しばらく進むと、危険地帯といわれているあたりに出た。なるほどその付近一帯は砲撃の跡で樹木が目茶目茶になっている。ようやく第二十師団の指令所の位置に出た。偶然にも、先に坂東川米軍陣地を突破してから行方不明になっていた奈良部隊から連絡将校らがやってきた。 彼等の部隊は、二週間もの間、草ばかり食べていたという話であった。見れば彼の背嚢から天幕、緑色の迷彩服、シャツにいたるまで、すべて米軍のもので固めていた。」


 十一、後衛陣地の占領、マルヂップ、ゼルエン岬地区への機動(聨隊の動き)

 ここでアイタペ攻撃以降、転進中の聨隊の動きを追うことにする。八月十日大石村に集結した聨隊は、ウラウ川の線を確保して東進する敵を阻止し、軍主力のウエワク周辺への機動を援護することを命じられる。アイタペ攻撃の先陣から一転して今度はしんがり軍となった。

 軍は迎撃と自活の双方をめざし山南地区(アレキサンダー山系南側地区)への転進を命じたが、わが聨隊だけは海岸地区に残留して第一線となり、マルヂップ、ゼルエン岬地区確保の命令を受ける。

 新配備の概要

第一大隊(第九揚陸隊・軍直部隊の一部配属)はゼルエン岬旗山地区。

第二大隊(歩兵第二百三十八聨隊歩兵砲中隊・他軍直轄部隊の一部配属)はニワトリ川マルヂップ地区。第三大隊(実兵力一個小隊程度)は予備隊。

 環境は益々悪化していくばかりであった。即ち食料の欠乏、マラリアの多発、疲労困憊、栄養失調などで体力は加速度的に低下、このため敵弾によるもののほか多数の兵員が、戦わずに陣内に没した。その数は日を追って多くなり、十一月末には聨隊の兵力はわずか三〇〇名になっていた。軍はこの状況をみて、第九揚陸隊、第十五、第三十六機関砲隊などをにわか仕立ての歩兵として聨隊に配属したが、それを加えても辛うじて五〇〇名程度であった。一時期ほとんど動きの見られなかった敵も、十一月初旬から第二大隊正面で活発な行動をはじめた。その攻勢は逐次本格化し、十二月四日遂に大隊長が敵弾に倒れるという状況になった。

 第二大隊は各陣地ごとの死守玉砕戦法をとっていたので、後任大隊長もこの方針で死守敢闘を続けてきたが、十二月末遂に力尽きて大隊長以下全員が、マルヂップ地区で壮烈な最期を遂げてしまった(第二大隊は以降再編されなかった)。マルヂップ地区を制して東進する敵に対して今後第一大隊が死闘を繰り広げることになる。

  十二、ゼルエン岬附近集結まで

 歩兵第二百三十七聨隊第二大隊(宮西隊兵員九〇名内外)はニワトリ川附近を確保して軍の退却を掩護すべき任務を帯びニワトリ川右岸の拠点を占領中であった。ニワトリ川を通過時「宮西、そんなに広正面に亘って占領すれば戦闘力もなく、また掌握もできないから三ケ所位の要点を占領して掌握できるようにせよ。」と注意する。 聞けば部隊長の指導によったものとかで四、五名ずつ分散して広正面を占領していたのである。「宮西頑張れ」と励まして別れる。また、ニワトリ川とゼルエン岬の中間地区は森本隊(第三大隊)が占領する予定であった。 我が大隊は第九揚陸隊主力(主力と言っても中田大尉以下十二名)を併せて指揮し昭和十九年十二月二十五日ゼルエン岬附近に到着する。坂東川渡河作戦以来常に第一線にあって戦闘し心身共に疲労し、兵力も逐次減少の一途を辿りつつある現在、久し振りに第一線を後退してヤレヤレという気分になった。兵員もこれからサゴ椰子でもたたいて澱粉を採って腹一杯食おうと語り合い、幾分呑気を取り戻してきたようであった。

 その時、青津支隊長(歩兵団長)が通りかかり「山下頑張れよ」と激励されたので「閣下、大隊は今、聨隊長の指揮下を離れているので今後は青津支隊の直轄にして下さいませんか。思う存分働いてみますが」と申し上ぐれば、「それは宜しい、聨隊長にそう言っておく、命令は後刻出すからその通りする。」と言われた。

 そばにいた第九揚陸隊の中田大尉、青木中尉に対し支隊長より「ご苦労だけれども山下を助けて一つ頑張ってくれ」と申され、青木中尉、感激して私に「隊長殿一つやりましょう」と決意を見せる。甚だ意を強くする。この支隊長の「御苦労だけども…」の一言はその後の作戦を容易ならしむる重大なる原因であったように思う。

 

 十三、第一線の敗退と敵の急追に伴う緊急配備

 敵の追撃急らしく十二月二十七日以降第一線であった宮西隊および森本隊の兵員が三々五々海岸道に沿い後退を始める。これらを捕らえて君等はどうしたのだと問えば「大隊長殿、敵はどんどん追撃してきてニワトリ川を渡河してきました。宮西少佐殿は川の付近に出ていって、敵の攻撃を受けて戦死されました。部隊はどうなっているか分かりません。連絡も全然つきません。」

 また他の者は次のように言う「森本隊は敵の包囲を受け全滅しました。森本隊長殿も戦死されました。図嚢[地図等を入れる小型カバン]は持ってきました。」、また後から追ってきたもの曰く「大隊長殿、敵は大発(上陸用舟艇)で大崎の鼻の西方にどんどん上陸しています。」、「それは本当か」と尋ねれば「たった今、敵の斥候から追われて漸く逃げてきたばかりです。」という。

 「青木中尉将校斥候だ、兵二名を連れ直ちに大崎鼻に行って、敵の上陸状況を偵察して来い。敵の斥候が海岸線に沿って前進するらしいから、左前の山腹に行って見れば大体分かる筈、上陸状況が分かればよいから、夕刻までには帰って来い。」と命ずる。

 夕刻、青木中尉帰って報告するには「敵の巡洋艦らしきもの二、輸送船らしき中型のもの三、大発四、五隻でどんどん上陸しています。敵の二十名位は海岸線に沿い電話線を引いてゼルエン岬の方にやって来ます。」という要旨の報告であった。

 

第一線を交代して気楽になったのも数日間、また第一線の戦闘部隊となった。しかし、青津支隊の直轄で一切の行動を任されているからこの点だけは気が楽な様であった。しかし、陽はとっぷりと暮れ果て、いかんともしがたく、明二十九日早朝より散兵壕を拡大することにした。


  十四、ゼルエン岬附近の戦闘

 二十九日早朝より散兵壕の構築に着手する。午後四時頃前方にて数発の銃声を聞く。森本隊の敗退せる兵三名帰って来て曰く「部隊長殿、敵はアノ附近のジャングルの中に二、三十名天幕を張って休んでいます。帰途、敵の連絡兵と遭遇して射撃を受けました。用心して下さい。」と言う。

 三十日夕刻青木将校斥候をして敵の捜索拠点を偵察する。斥候は山脚沿いに薄暮捜索拠点に近接し、敵の寝静まるのを待って偵察したところ、敵は監視兵も歩哨も置かず天幕外に銃を立て掛け休んでいるとの報告であった。 また夜間、山脚方面よりの奇襲は地形とジャングルの関係上困難とのことであった。任務は持久戦だ、だが放っておけば敵はどんどん進撃してくるに違いない。敵の出鼻を挫かなければならない。

 ここで一つ敵の捜索拠点を奇襲しよう。しかし明日は昭和二十年一月一日だ、奇襲すれば戦死者が出るのは覚悟の上、年だけは取らしてからにしようと思い、三十一日夕刻、副官にたいして二日未明、敵を奇襲する目的を持って海岸方面より偵察を行うよう命ずる。

 昭和二十年一月一日天候良好、一同皇居を遙拝して内地の事など思いながら奇襲攻撃をひたすら準備する。敵は一月一日迄に大崎鼻に観測所(四角のヤグラで組み立てたもの)の附近に数門の砲を構え、観測台には常に一、二名の監視兵を立ている。我に一個の擲弾筒[白兵戦等で使う手で投げる爆弾]でもあれば山脚方面より潜入発射して敵の度肝を抜き且つ大混乱させるのだがと語りつつ負け戦の惨めさを思う。

 大隊は一月二日未明、敵の捜索拠点を奇襲するため、午前二時頃陣地を出発し攻撃準備位置に到着する。青木将校斥候をして電話線切断のため潜入した。攻撃準備位置に待機中、約三十分位して斥候の伝令が帰って来て電話線切断成功の報告を受ける。

 大隊はただちに攻撃準備位置を出発、敵の前方五、六〇メートル附近に接近したとき、大崎鼻に一発の信号弾が上がった、と同時に間髪をを入れず百雷の一時に轟くが如く砲撃を開始し、敵の拠点およびわが進路の左方ジャングル内に相当広範囲に砲弾が落下する。

 敵の拠点にいた部隊は自動小銃を乱射しつつ海岸に移動して水際を後退し始めた。敵の砲撃は甚だしく前進不可能、また拠点の敵兵も後退を始めたが、夜間のこととて追撃もできず、進退極まりゼルエン岬の陣地に後退することを決し大声で集合を命ずる。

 敵の砲撃は甚だしく、逐次射程を延伸してゼルエン岬陣地附近に集中する。敵の射程延伸にともない我が退路は比較的安全となり兵力集結後は比較的容易に水際を後退し、一兵も損ぜずゼルエン岬海岸の岩の下に後退する。 敵の射撃は一斉射撃にて、ちょうど艦砲射撃の観を呈し、誰いうことなく敵の砲兵の銃は二連装だとか三連装だとか、その射撃の激しさを噂する。黎明と共に敵の砲撃も止んだので、陣地に監視兵を配して、正月三日だということで午前中岩屋の中で兵員を休息させる。さらに、これより優勢なる敵の包囲攻撃を受け「サラップ」附近に撤退する十四日までの約二週間、砲兵および戦車を増強し且つ飛行機の支援の下に攻撃してくる優勢なる敵と「感状」に記されている通りの死闘を繰りかえし支隊攻勢確立まで敵の企図を封殺した。

 
十五、玉砕命令下達と終戦(聨隊の動き)

 聨隊は、五月十八日に軍の直轄となり、ヌンボクの軍指令部への前進の命をうけ山南方面に向かい機動を開始した。アイタペ作戦から十ケ月、連日連夜死闘を重ねた海岸線との決別であるが残存兵力は極めて少なく増加配属された部隊を加えても一三〇名であった。

 

軍は聨隊に対しヌンボク到着前にセピック河畔に前進、

セピック集団(ほとんどが後方勤務の軍直轄部隊)の中核となり同地区を防衛すると共に戦力の回復を命じられた。このころ、敵の進攻は益々速度を加え軍主力方面はウエワク南方ツル山麓に、また山南方面も逐次ヌンボク方向に圧迫されはじめていた。

 七月、軍はヌンボク複郭陣地を玉砕の地と定め、最終的には諸隊をこの中に収容し最後の一兵までの徹底抗戦を下達した。(注 七月二十五日に安達軍司令官は第十八軍全軍に対する玉砕命令を下命した)

 

そのうちわが聨隊はチャイゴール地区で戦闘中の師団主力への復帰を命じられ、八月二日から六日の間にそれぞれブンブ川西方地区の戦闘に加入した。このころ師団の戦力は二個大隊以下でその防御正面は二十キロにおよぶものであった。ジャングルに遮蔽し敵を不意に急襲し、あるいは潜入斬り込みを行うなど前面の敵に痛撃を与えたが、戦線は入り乱れ随時随所で戦闘がはじまるという状況であった。各隊は当面の敵を阻止していたが、敵の有力部隊がチャイゴール、ウイトペ間のわが防御間隙から潜入侵透し、軍指令部所在地ヌンボクの西南ヤンゴールに進出した。

 軍は敵のヤンゴール占領を各隊に通報すると共に、玉砕命令を同時に下達した。将兵の誰もがいずれはとの覚悟を胸深く秘めていたが、その玉砕の時が目前に迫ってきたことを誰もが直感した。

 明けて八月十五日、敵の砲爆撃が急に途絶え、戦場は静寂な自然にかえった。だが戦い続け疲労困憊の極にあった将兵の誰もこの異変に気付くものはなかった。午後、敵機が「日本降伏せり……」のビラをまいし飛び去ったが一笑に付していた。十六日も銃砲声は聞こえなかった。 ようやく情勢の変化を感じはじめたころ、十八日「戦争は終結せるもののごときも、大命に接せず依然戦闘続行」、二十日「潜入斬り込みなどの積極行動の中止」、二十一日「正式停戦、軍旗泰焼」の命令を受領した。玉砕命令が下達され二、三日後に玉砕する部隊がまさに奇跡的に終戦をむかえたのである。

 北支那からニューギニアに上陸して二年有余年。悪戦、苦闘、死闘の連続であった戦闘はついに終わった。

 軍旗の泰焼は、昭和二十年八月二十四日十一時、チャイゴール東方ブンブ川とブギ川の合流点の丘の上で行った。栄光の軍旗も、聨隊数千の戦没英霊と共に、赤道の彼方に煙となって消え去ったのである。

 九月中旬、連合軍からウエワク対岸のムシュ島へ集結の指令をうけ、十月初旬ボイキンにおいて武器、弾薬を捨て十月末までに同島東部地区に集結を終えた。

 ムシュ島には十二月に復員第一船が入港、以降相次いで来着、歩兵第二百三十七聨隊は昭和二十一年一月十六日病院船氷川丸に乗船、一月二十四浦賀に入港した。

 しかし、懐かしい日本の土を踏みしめて復員できたのは聨隊で四十六名、第一大隊は実に八名に過ぎなかった。 日本軍と戦った「豪陸軍公刊戦史」の山南の戦闘の最後の部分は「日本軍が示した決死の防禦戦闘は、情況上望みないにもかかわらず凄惨な戦闘に堪え、病気と栄養失調という悪条件であるだけに、正に感嘆に価するものである。」と総括している。

 

 十六、軍司令官 安達二十三中将

 ここで第十八軍司令官、安達二十三中将についてふれることにする。田中兼五郎参謀「安達軍司令官の人格は、昭和十七年十一月十六日に示された統率方針によく現れていると思う。明瞭でしかも強い統率であった。第十八軍に関する限り、幕僚の思想や意見が軍の統率上の問題になることはなかった。

 統率方針は、至厳なる軍紀、旺盛なる攻撃精神、鉄石の団結、実情に即応する施策、以上四項目である。軍司令官は身を以て厳正な統率を貫かれた。また自身常に攻撃精神を堅持し、いかなる場合もへこたれることはなかったし、常に団結の維持強化に意を用いられた。軍司令官の意図されたのは、男性的な武士道的な団結である。当初は二十数貫(七十五キロ以上)ある堂々たる体格で、こわい人であった。もともと愛情の強い方であったが、ただその表現が男性的だったのである。作戦が長期にわたり、糧抹がなくなり、将兵が次々に倒れる段階になると、軍司令官がこれに断腸の思いをして居られるのが周囲にも良く分かった。この頃になると、軍司令官自身やせて、しかも歯が一本もなくなり、サゴ椰子の澱粉をただ飲み込むだけになってしまわれた。態度にも柔らか味が増し、道で行き合う兵士にも『オウ、オウ』と声をかけられるような情景がよく見られた。」

 杉山茂参謀「軍司令官は統帥の発動にあたり四項目

[前述]を示され最後まで貫き身をもって実行された。統帥は純正無雑、一点も私心をはさまぬものでなければならぬということであり、自らを厳しく律せられた。またこれと関連し、幕僚統帥を強く排斥された。特に「参謀長をして指示せしむ」と明示した事項以外に関しては越権を許されなかった。攻撃精神も最後の最後まで強調し実行された。軍の各兵団がばらばらに戦場に到着し分散して作戦することが多かったため団結のため「信と愛」という言葉を常に強調された。また、好んで第一線をよく視察された。」

 吉原矩参謀長「閣下は自分を律することに厳で、信念の強い方であった。第十八軍は市ヶ谷で編成された。私は少し前に北満から到着し、その後閣下が到着されたが、当時閣下は数日前に夫人をなくされたばかりであったのに、このことを誰にも一言も話されなかった。同じような件が終戦後にもあった。船がついて令妹のご病死を伝える手紙がきたが一言も漏らされなかった。
第十八軍の統帥も、透徹した誠に立派な統帥であり、真に軍神という言葉に値する将軍であったと思う。軍指令部は非常に優秀な人材で編成されていた。これは必ずしも陸大の成績が良かったというようなことでなく、いろいろな意味で全軍にも数少ないと思われるような人材が集まっていた。参謀相互実によく融和し一致して軍司令官の意図に従った。
ただ、その透徹した強い統帥が隷下各師団長以下を、それぞれの能力を十二分に発揮して働かせたか否かという点については、多少の問題もあったかと思う。」 
また、第十八軍主力は停戦後、連合国の指示に基づいて、ムッシュ島に集結したのち十二月から翌昭和二十一年一月にかけて内地に帰還した。
しかし軍主力の帰還後、戦犯容疑者あるいはその証人として、一三八名がラバウルに残留した。そして、ほぼ部下戦犯容疑者保釈の目途もついた昭和二十二年九月十日、安達軍司令官は、ニューブリテン島ラバウル戦犯収容所で自決。次にその二十数人の部下に宛てた遺書を掲載する。

  在コンパウンド[注 当時の豪軍ラバウル戦犯収容所]

元第十八軍将兵諸君御中

 私は今日を以て最愛の諸君とも御訣れすることとした。

私は昭和十七年十一月彼我戦争の勝敗の帰趨将に定らむとする重大なる時期に於いて、軍司令官の要職を拝し、皇軍戦勢の確保挽回の要衝に当たらしめられしことを、詢に男子一期の面目にして有り難く存奉りし次第である。然るに部下将兵が万難に克ちて異常なる興奮に徹し、上司亦力を極めて支援を与へられたるに拘らず、私の不敏の故を以て能く其目的を達するに到らず、皇国今日の境地に到る端緒を作りしこと罪万死も猶足らずと存ず。

またこの三年の作戦の間、十万余の青春有為の将兵を喪ひ、しかもその大部分が栄養失調に基因するものなるを思う時、御上に対し奉り何と御詫びの言葉もなく、只々恐れいるばかりなり、また私は皇国興廃の関頭に立ちては最後の血の一滴まで捧げ尽くして奮闘に徹するを我等国民の我等軍人の常の道なりと信じ、打ち続く戦闘と補給難に極度に疲れ、飢え且つ衰えたる将兵に更に要求するに凡そ人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克艱を以てせり、そして全将兵がこれに対し黙々としてこの命令を遂行しつつ、力尽きて花吹雪の如く散り行く姿を眼前に眺めし時、君国の為とは申しながら、我胸中に湧き返へる切々の思いは唯神のみぞ知るべし。当時私は陣歿するに到らず、縦令凱旋に直面するも必ず十万の将兵と共に南海の土となり、再び祖国の土を踏まざることに心を決したり。

昭和二十年八月終戦の大詔を、続いて停戦の大命を拝し、

聖旨の徹底、疲憊の極点にある将兵を無事にお手許へお返し申し上ぐるに万全を期し、且つ戦犯関係将兵の前途を見届くることの甚だ大なるを思ひ、これら処理の為今日に及びたる次第なり。

然るに右三要件も亦小生の不敏にて所期の成果を挙げ得ざりしも、今や大体一段落となり特にCコンパウンドの大部が終了せしやに感ぜらるるを以て初志を実行することとした。

即ち上述の如く私は御上に対し奉りまた国民諸君に対し、何とも申し訳なしとの思いに満ち満ちている。いかしこれは余りにも重大にして微々たる私の一死の如き御詫びのしるしともならず、かく考えることはむしろ私として僣越な考えであると思う、即ち私は純一無雑に初志に順ひ十万の陣歿、十の殉国[注 収容所での部下光部隊戦犯刑死者]の部下将兵に対する信と愛とに殉ずるのである。
祖国のこの現状を目前にして、渾身の努力奉仕を敢えてせずして逝くことは、私も相いすまぬことと思う。また老体を提げて復興に挺身しがたい意欲胸に燃えざるに非ず。然し彼の十万の陣歿、十の殉国の将兵の枯骨をこの地に残して私が生きて還るが如きは到底出来得べきことではない。これは理屈や是非得失を超越した思いであり、無論其の中には私の詩や哲学も含まれては居るが、更に将師としての動かすべからざる情熱信念であるのだからこの点は何卒勘弁して欲しい。

さて諸君には作戦三ケ年の間、非常にご苦労をかけた。そして皆立派にやって下された。これに対する衷心感謝の思いは今以て胸に燃えている。然るにその諸君を今日の境地に立ち到らしめたことは何時も申すことながら、何とも申し訳ないことで御訣れをするに際し、更に衷心より謝する次第である。尚最後まで諸君と苦労を共にし、諸君の全部が郷里に還る姿を見届けてからと考えたが、凡そ事は時期というものがあり、どうも今が時期であるように思うからこの点も何卒諒承して欲しい。

御国の大事を前にして個人の幸不幸を言うべき筋合いでは無いが、しばらくこれを許して戴きたい。私は個人として実に幸福なる一生を送ってきた。

明治の聖世に生育して国運興隆の澎湃たる潮に乗じて生長し、しみじみ皇恩の有り難さを身に徹し、そして軍人としての最後の十年を戦陣に本分を徹底するの機会を与えられた。

一身に関する限り誠に有り難き一生であった。然し以上にも劣らず、この世を辞するにあたって、深く自分の幸福として心肝に銘するものがある。これは諸君が私に示して下さった極めて温かい情誼情愛である。私は最近二十数名の良い子供を持ってその情愛の下に生活しているような有様であった。私がこの温かい情愛、人間の美しい面影を一生に於ける最後の感銘として世を辞するの幸福を与えられたことにつき、深く諸君に御礼を申し上げる。

それでは諸君よく自愛なされそして無事に帰郷の上御国の為に御尽くしになることは勿論ながらまた諸君の御多幸を祈る             敬具。

極めて多難なる邦家の前路は少壮溌剌たる人材に依り著々打開せられ行くべきを確信し之を祝福す。

 二伸

 之は申すまでもないが私の今日の事はニューギニア作戦の特種の様相から起こったことで他方面のことは全く別に考うるを要すると思う。自分は自分の特種の立場を離れて言えば左記論語憲問第十四に於いて孔子が子貢の問に答えて管仲を論ぜし意見に大なる興味を有するもので(全面的同意に非ず)管仲の如き小節の義理と世評等を超越し真に邦家の為具体匡救を断々乎として行って行く大力量、大手腕、大気魄を発揮、線の太い大器の出現を望んで居る位である。呉々も自分はニューギニアの特種の事情を基として終始して居るのである。 以上。


「戦史叢書」より山南邀撃戦の関連記述を転載。

  第四十一師団長は、八月一日から三日の間に各隊長、副官を招致して、玉砕に関する軍司令官の決意を伝達した。特に第四十一師団の正面のガリップ、チャイゴール付近に対する敵の攻撃は熾烈で同師団と軍指令部との連絡は十三日まで途絶した。同師団は先に軍がセピック地区で再建を図った歩兵第二百三十七聨隊の到着を迎え、チャイゴール方面に投入要地の確保に全力を尽くしたが戦況は熾烈で豪軍の進出を許した。八月十五日には軍司令官は刻々最終段階に迫る戦況にかんがみ、軍指令部を全軍玉砕の中心とし、軍司令官以下、その最後の進退に真に軍の本領を発揮すべく、全員武器を整えるよう指導した。

 「軍の玉砕」思想を底流とする、これらの軍命令は大東亜戦争全般経過からみても、極めて異例に属する命令である。また、これに先立って七月八日、南方軍総司令官は第十八軍司令官に対して、その敢闘を賛える「感状」を授与した。「軍の感状受領」ということも、これまた異例のことであった。これらの事実は第十八軍のおかれた状況が、戦争全般からして、いかに大変なる地位にあったかを端的に物語るものであって、第十八軍将兵の苦難を別の面から立証するものである。

 南太平洋の戦局は戦争後期に入ると、日本本土はもとより他の戦場からも完全に遮断されることになった。世界戦史上からも例をみない、方面軍という大きな組織の軍隊が、一年有半という長期間にわたって、敵中に孤立するという異常な事態である。
一〇万を越える大組織、しかも衣食住すべて人間としての極限をはるかに過ぎた過酷な条件の下でよくこれだけの集団が最後まで組織を崩壊させずに戦えたものだと三嘆の声をあげざるを得ない。首将に人を得たことも大きな理由であろう。幕僚に選抜された人材が配置されていたことも事実である。しかしながら、ソロモン、ビスマルク諸島、東部ニューギニアとほとんど日本全土に匹敵する広範囲に散在する、食うや食わずの軍隊を一つの目的にともかくまとめ得たものは、簡単な一つや二つの原因からではないと思う。
軍隊としての「らち」を越えたところで、日本民族の精神の高さを見事な光芒をひいて示してくれた。最後に、「どこまで戦ったか」という具体例をアイタペ、山南邀撃戦を共に戦った一個師団を例にとり兵力変動表で示す。生半可な抽象論ではなく、「軍隊が戦うということは、どういうことなのか」、一本の変動曲線が十分に物語ってくれると思うからである。以上。戦史叢書より転載。


「父のニューギニア戦記」 あとがき(国家の器量)
山下憲男

 作家の司馬遼太郎氏は、大正、昭和約四十年の史観を次のように述べている。

 「日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。とくに大正七年のシベリア出兵からはキツネに酒を飲ませて馬にのせたような国になり、太平洋戦争の敗戦でキツネの幻想は潰えた。」

 「私はポーツマスの町で、一九0五年(明治三十八)の『ポーツマス条約』について考えている。とくにその後の日本を荒々しく変えてしまったことについてである。ロシアからもっとふんだくれるかと思っていた群衆が、意外に取り分の少ない講和条約に激昂して暴動化した。

  『群衆』これも近代の産物である。この群衆は国家的利己主義という多分に観念的なもので大興奮を発した。日本はじまって以来の異質さといっていい。私は、この理不尽で、滑稽で、憎むべき熱気のなかから、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義が、まるまるとした赤ん坊のように誕生したと思っている。

 この熱気は形をかえて教育の場の思想ともなった。つかのまの大正デモクラシーの時代ですら、江戸期のすぐれた思想家たちについては一言も教えられることなく、むしろ南北朝時代の典型的な中世の情念が、楠木正成などの名を借用することで、柔らかい頭にそそぎ込まれた。

 大正期以降、熱気は、右翼と左翼にわかれた。根は一つだった。昭和前期を指導した軍人達は、そういう教育をうけた疑似中世人たちで、おなじ軍人でも、かれらの先人である明治初期の大山巌や児玉源太郎たちからみれば、似もつかぬ古怪な存在になっていた。」

 「自国の歴史をみるとき、狡猾という要素を見るときほどいやなものはない。江戸期から明治末期までの日本の外交的な体質は、いい表現でいえば、謙虚だった。べつの言い方をすれば、相手の強大さや美質に対して、可憐なほどに怯えやすい面もあった。

 謙虚というのはいい。内に自己を知り、自己の中になにがしかのよさを拠りどころをもちつつ、他者のよさや立場を大きく認めるという精神の一表現である。明治期の筋のいいオトナたちのほとんどは、国家を考える上でも、そういう気分をもっていた。このことは、おおざっぱにいえば江戸期からひきつがれた武士気分と無縁ではなかった。

 しかし、怯えというのはよくない。内に恃むものとしてみずからのよさ(文化といってもいい)を自覚せず、自他の関係を力の強弱のみで測ろうとする感覚といっていい、強弱の条件が変われば倨傲になってしまう。

 日露戦争のあと、他国に対する日本人の感覚に変質がみとめられるようになった。在来保有していた怯えが倨傲に変わった。謙虚も影をひそめた。江戸期以来の精神の系譜に属する人々が死んだり、隠遁したりして、教育制度と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた。かれらは、かつて培われたものから切り離された人々で、新日本人とでもいうべき類型に属した。

 官僚であれ軍人であれ、このあたらしい人達は、それぞれのヒエラルヒー(階級)の上層を占めるべく約束されていた。自然、挙措動作、進退、あるいは思慮のすべてが、我が身ひとつの出世ということが軸になっていた。 かれらは、自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対し、狡猾に立ちまわさせるものだと信じていた。とくに軍人がそうだった。

 日本における狡猾さという要素は、すべて大正時代に用意された。国内には大正デモクラシーとか、大正的な大衆社会の現出を見ながら、対外関係においては、後世からみても卑劣としか言い様のない国家行動が、その立案者にすれば、愛国的動機から出ていた。それを支持したり、煽動したりする言論人の場合も、そうだった。

 国家にも、器量がある。器量とは、人格、人柄、品性とかいった諸概念をあつめて、輪郭をぼかしたような何かであるとしたい。」

 その何かの一つとして、敬天舎の先師、杉浦重剛先生は東宮御学問所で皇太子裕仁親王(昭和天皇)に倫理をご講義するにあたり化学者らしく、「倫理御進講」では三種の神器を非神話化し、知仁勇におきかえて説かれたという。
 すなわち、「知仁勇三つの者は天下の達徳なりと『中庸』に記されたるにあり。世に人倫五常(父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信ありの五つ)の道ありとも、三徳(知仁勇)なくんば、これを完全に実行すること能わず。


 言を換うれば、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。知はその道を知り、仁はその道を体し、勇はその道を行うものといえり」と。昭和天皇の帝王学の基礎を築いた根底の一つでもあろう。 

 またいっぽう杉浦重剛先生はその稱好塾で塾生の指導にあたられ次の世代を担う人材を世におくりだされたわけである。それら逸材の一人、岩崎行親先生、岡積勇輔先生などの努力により敬天舎が創設され、西郷南洲翁の思想をくむ同じ系譜の同志がお互い協力し、大戦末期にはキツネの幻想を潰やすことに奔走されるのであった。

 当時の鈴木貫太郎総理を中心に天皇にご聖断を仰ぎ日本を終戦に導く努力された敬天舎の迫水久常先生(当時内閣書記官長)、四元義隆先生(当時鈴木総理秘書)、総理の身辺警護に挺身された北原勝男先生はじめ先輩諸氏の活躍は母からよくきくところであり、また同人の皆様方が最もよくご存じのところである。

 それから戦後四十数年、国民の努力により国力は復興し平和な国になっている。先進諸国で近年戦争を体験していないのは日本とドイツぐらいではなかろうか。私はいわゆる団塊の世代である。もしこのまま戦争を体験しないで一生をおくることができたとしたら、近世の歴史のなかでは希なことなのであろう。私たちは父らが経験したような戦争は二度と起こさないような努力をしなければならない。

 しかしながら私たちを取り巻く世界の情勢は東西関係をはじめ経済環境も急変している。健全なる経済行為をしているとおもいつつも、周囲では貿易摩擦がいたるところで起きている。本来の経済行為は、地球規模でより豊かで幸せな社会をきづくための競争と協調であろう。その貢献度を計る物差しの一つが企業でいえば副産物としての利益であり、政府レベルでは各国からの尊敬と評価でもあろう。

 こんにち日本経済は好景気を呈しているがこれも、実力的にはお釈迦様の手の上の孫吾空みたいなものではなかろうか、残念なことに我が日本は「経済は一流、政治は三流」と諸外国からいわれ、さらに近隣諸国にすら真の友人もつくれていない。

一方、現在の産業界を戦略的見方でとらえるとすると軍(通常は三個師団)、師団(一個師団は約一万五千)規模の企業から中小規模の企業まである。軍には軍参謀、師団には師団参謀がいるごとく企業にもそれなりの部署がある。さしずめ現代の大本営は関係省庁および政府で、現在の大本営参謀は官僚をはじめ政府高官といったところか。

 現代の大本営は米国の政治・経済戦略にも対応できず、おまけに政治の貧困さまでさらけ出している。これら大本営の戦略の未熟さを各分野のそれぞれが戦術、戦闘でカバーしているのが現状ではなかろうか。見方をかえれば戦前の日本の様相とそう大差はないようにも思える。見識ある企業経営者も、とくに諸外国との貿易においては囚人のジレンマに陥りつつある。わが国は以前より内部に抱えた矛盾は自身でかえられず外圧によってかえさせられてきた。今は日本の将来を方向づけるためにも重要な時期ではなかろうか。

 後世の歴史家が、「日本は経済を中心に企業と企業戦士が前線で勇猛果敢に活躍したが国家レベルにおける戦略的グランドデザインがなく、大日本経済大国は文化的偉業もないまま衰退し二十一世紀には終焉を迎えたのであった。」といわれないよう、気をつけねばなるまい。
 
 司馬氏も述べておられるように国家には国家レベルの器量が必要であり、企業には企業レベル、国民一人一人には個人の器量が重要であろう。器量は人徳であり、その人の培った世界観、歴史観、使命観、人生観、道徳観などが醸し出すものではなかろうか。この人徳の積み重ねが自然と国家の器量となっていくのであろう。

 最後まで、「父のニューギニア戦記」にお付き合いいただきありがとうございました。冒頭にも述べましたがこの戦記は父の大隊の戦闘記録のほんの一部を「最前線指揮官の作戦の教訓」という観点で把えた限られた範囲の戦闘記録です。                  

 完

  平成二年三月二十一日

                                            山下憲男

主な参考文献と資料

「四一会会誌」各号

防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書南太平洋陸軍作戦 (五)」

「水戸歩兵第二聨隊史」

「第四十一師団ニューギニア作戦史」

堀栄三郎「大本営参謀の情報戦記」情報なき国家の悲劇  文芸春秋、一九八九年、[堀氏より著作権の使用権許諾を得て内容の一部を転載した。]

戸部良一他「失敗の本質」ダイヤモンド社、一九八三年

土門周平「日本陸軍の名リーダー『地獄』を戦い抜いた 『非情』と『無私』の陣頭指揮

、『闘将』安達二十三とニューギニア戦線」プレジデント、昭和六〇年  十二月号

「戦う天皇」講談社、一九八九年

小松茂朗「安達二十三」光人社、一九八八年

角田房子「責任ラバウルの将軍今村均」新潮社、一九八四年

星野一雄「ニューギニア戦追悼記」戦誌刊行会、一九八二年

山田佐「鳴呼・ニューギニア戦」旺史社、一九八五年

山本七平「昭和天皇の研究」祥伝社、一九八九年

小島直記「志に生きた先師たち」新潮社、一九八五年

司馬遼太郎「アメリカ素描」読売新聞社、一九八六年

       「ロシアについて」文芸春秋、一九八六年


勤務先:(株)東芝 コンピュータ事業部 コンピュータパッケージソフトウェア技術部         山下憲男 

「父のニューギニア戦記」