米軍の責任者たちもこの町の気風がわかって誤解を解いたが、しかし「明治維新でサムライが無くなったはずであるのに蒲生だけでなおそれを続けているのはけしからん」というので共有社の解散を示唆した。
「――かくして」
――平民も入れればよかろう。
町長と連れ立って馬場(ばば)を歩いているうちに、いつのまにか人数がふえた。サムライ会社の重役さんたちであった。 瀬之口澄紀氏、山口正志氏、野村豊一氏で、瀬之ロ、山口両氏は、齢ですか、七十七歳です、といわれた。しかし姿勢がよく、応答の反応が敏感で、とてもそういう年齢にはみえなかった。「この二人はわしをいじめるのですよ」 と、小山田町長がいった。町長は七十六で、齢が一つ下である。薩摩の風として長幼の序列が緊密なために「この齢になってもえらそうにされるんですよ」と町長さんが笑った。ただし野村豊一氏だけは五十代で、「いつまでたっても小僧あつかいです。ですから寄合のときはビールの栓(せん)ぬきばかりさせられます」とこぼした。 八幡宮の岡につづく台上へのぼった。台上には、この蒲生郷のサムライたちが経てきた各戦役の記念碑が林立していた。日清日露や大東亜戦争の記念碑なら各地にあるが、この郷では戌辰戦争のもあり、それ以前の薩英戦争の碑もあれば、さらに最大のものとして関ケ原の役の記念碑までずっしりすわっており、日本戦史そのものがこの郷に集約されている観があった。 「関ケ原のときゃ、私の先祖は戦死しました。角(かど)の○○さんとこは生き残って帰ってきたから感状をもらったが、私のほうはもらわなかった。あれは惜しことでした」と、このあいだのことのように、一座の誰かがこぼした。
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薩摩蒲生(かも)郷の竜ケ城(りゅうがじょう)をはるかに望む丘陵上にわれわれは案内された。
「当時は難攻不落をうたわれたものでした」 と、小山田町長がいった。が、望んだだけの印象では、鬱然たる樹叢(じゅそう)をもつただの丘陵にすぎないようにもおもえる。むろん、石垣も残っていない。当時から石垣もなかったのであろう。 「城」というこの壮麗な構造物についてのわれわれのイメージが出発するのは、織田信長の安土城からなのである。信長が出現しなければ日本の城のイメージは、この薩摩蒲生郷の竜ケ城のようなものでありつづけたにちがいない。私は、信長のことを考えてみた。かれは強烈な好奇心のもちぬしで、さらには自分が大航海時代という世界史の新段階に存在しているということをはっきり認識していた男であった。
―― 南蛮の城というのはどういうものであるか。
「材料はなんであるか」
「石でごぎる」 さらに信長が五層の天守閣を天にそびえさせたのも、南蛮人の物語からのヒントかもしれない。西洋の城は往々にして王侯の権力を造型化して人民どもにしらしめようという意図をふくんでいるが、安土城出現までの日本にあっては、大城郭をもって地上の権力の偉大さを示そうという習慣はなかった。むろん天守閣の小規模な先駆例はいくつかある。が、天守閣が攻防用よりもむしろ権力の造型化として考えられたのは安土城からである。 信長は国内統一の基確がためができたときに安土城をつくった。その直後に大坂城を構成したのは、かれの対世界意識のあらわれであったであろう。この当時の南シナを中心とするアジア貿易の活況や、南蛮人をかりたてている世界貿易の潮流に信長も乗ろうとしたにちがいない。かれは大坂城を築くため、いまの大阪湾頭の上町台地(石山)に寺をかまえている本願寺に立ち退きを命じたことによって泥沼のような石山合戦という長期戦の運命に落ちこんでしまい、それがやっと終息した直後に本能寺で死ぬ。近世へのひらき手ともいうべき信長にとって、城というのはそういうものであった。
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