米軍の責任者たちもこの町の気風がわかって誤解を解いたが、しかし「明治維新でサムライが無くなったはずであるのに蒲生だけでなおそれを続けているのはけしからん」というので共有社の解散を示唆した。

「――かくして」

と、右の町史の文章はやや悲壮味を帯びる。「士族共有社は七拾年の伝統ある歴史を閉じ、新たな目的と使命達成に発展的解消するに至ったのである」とある。ただし実際の上ではさほどの変化はなかった。
元、士族共有社の蒲生殖産興業株式会社

――平民も入れればよかろう。
というので、有資格者の幅をすこしひろげ、「蒲生殖産興業株式会社」という名称にかえたぐらいのものであった。ついでながら以前の″サムライ会社″は社団法人であった。株式会社になっても、山の木を切っては金にし、いまも東京へ出る青年のために学資貸与をしつづけている。現在の町長さんもその他の有力者たちも、すべてこのサムライ会社のおかげで学校を出たひとびとであり、他府県に出て官吏や教育者になっても定年後はたいてい町に帰ってきてこの会社の役員になり、つぎの代の青年の学資の面倒をみる。

蒲生の町は、町というより村といった感じの規模である。なるほど武家屋敷の石垣が青く、大路小路にはその青味がはるかにつづき、たまたま私が用意していた旧幕時代の蒲生郷の居宅地図に照らしあわせてもさほどの変化がなかった。
武家屋敷の石垣が続く(中原通り)
村の正面に八幡宮の岡があり、それへ登って見おろすと、旧地図に描かれている1御本陣」とある箇所に二階建て洋館の町役場がそびえ立っているのが、めぎましい変化であるといえばいえる程度である。地形は盆地をなしている。まわりの山かかをみればいかにも隠れ里といった感じであり、日本にもまだこういう町が遺されていたのかという驚きを感じた。
町役場をたずねると、外来者がめずらしいらしく、おおぜいの人が寄ってきた。町会議員のひとびとらしかったが、どの人も短躯頑健そうな体つきで「薩摩隼人の典型的体つきというのは背がひくく、そのわりに背中がひろく、全体にツイタテのようである」といわれているとおりの骨格のひとが多い。

運よく町長さんの小山田政弘氏がおられた。柳田国男翁のような風貌のひとで、机の上の中折帽をとりあげ、それをちょんと頭にのせると、「さぁ、町をご案内しましょう」
と、ひどく気の早いひとだった。

町長と連れ立って馬場(ばば)を歩いているうちに、いつのまにか人数がふえた。サムライ会社の重役さんたちであった。

瀬之口澄紀氏、山口正志氏、野村豊一氏で、瀬之ロ、山口両氏は、齢ですか、七十七歳です、といわれた。しかし姿勢がよく、応答の反応が敏感で、とてもそういう年齢にはみえなかった。

「この二人はわしをいじめるのですよ」

と、小山田町長がいった。町長は七十六で、齢が一つ下である。薩摩の風として長幼の序列が緊密なために「この齢になってもえらそうにされるんですよ」と町長さんが笑った。ただし野村豊一氏だけは五十代で、「いつまでたっても小僧あつかいです。ですから寄合のときはビールの栓(せん)ぬきばかりさせられます」とこぼした。

八幡宮の岡につづく台上へのぼった。台上には、この蒲生郷のサムライたちが経てきた各戦役の記念碑が林立していた。日清日露や大東亜戦争の記念碑なら各地にあるが、この郷では戌辰戦争のもあり、それ以前の薩英戦争の碑もあれば、さらに最大のものとして関ケ原の役の記念碑までずっしりすわっており、日本戦史そのものがこの郷に集約されている観があった。

「関ケ原のときゃ、私の先祖は戦死しました。角(かど)の○○さんとこは生き残って帰ってきたから感状をもらったが、私のほうはもらわなかった。あれは惜しことでした」と、このあいだのことのように、一座の誰かがこぼした。
蒲生八幡神社境内
関ヶ原合戦の記念碑
左から関ヶ原、薩英、日清、日露、戊辰の役
薩摩蒲生(かも)郷の竜ケ城(りゅうがじょう)をはるかに望む丘陵上にわれわれは案内された。

「当時は難攻不落をうたわれたものでした」

と、小山田町長がいった。が、望んだだけの印象では、鬱然たる樹叢(じゅそう)をもつただの丘陵にすぎないようにもおもえる。むろん、石垣も残っていない。当時から石垣もなかったのであろう。

「城」というこの壮麗な構造物についてのわれわれのイメージが出発するのは、織田信長の安土城からなのである。信長が出現しなければ日本の城のイメージは、この薩摩蒲生郷の竜ケ城のようなものでありつづけたにちがいない。私は、信長のことを考えてみた。かれは強烈な好奇心のもちぬしで、さらには自分が大航海時代という世界史の新段階に存在しているということをはっきり認識していた男であった。

―― 南蛮の城というのはどういうものであるか。
ということを、信長は安土城設計を考えているときに宣教師たちに質問してみたにちがいない。

「材料はなんであるか」
と、信長はきいたであろう。

「石でごぎる」

ということで、信長に石のイメージが浮かんだ。信長は石造よりもむしろ豪壮な石垣を積みあげるというプランをおもいついた。むろん信長は宣教師から城作りを教わったわけではなく、宣教師の物語る西洋の城の感じからヒントを得ただけのことにすぎない。なぜならば安土城は西洋の城とはまるで似つかぬものだからである。

さらに信長が五層の天守閣を天にそびえさせたのも、南蛮人の物語からのヒントかもしれない。西洋の城は往々にして王侯の権力を造型化して人民どもにしらしめようという意図をふくんでいるが、安土城出現までの日本にあっては、大城郭をもって地上の権力の偉大さを示そうという習慣はなかった。むろん天守閣の小規模な先駆例はいくつかある。が、天守閣が攻防用よりもむしろ権力の造型化として考えられたのは安土城からである。

信長は国内統一の基確がためができたときに安土城をつくった。その直後に大坂城を構成したのは、かれの対世界意識のあらわれであったであろう。この当時の南シナを中心とするアジア貿易の活況や、南蛮人をかりたてている世界貿易の潮流に信長も乗ろうとしたにちがいない。かれは大坂城を築くため、いまの大阪湾頭の上町台地(石山)に寺をかまえている本願寺に立ち退きを命じたことによって泥沼のような石山合戦という長期戦の運命に落ちこんでしまい、それがやっと終息した直後に本能寺で死ぬ。近世へのひらき手ともいうべき信長にとって、城というのはそういうものであった。

ところが薩摩においては、信長的な城の思想は一度も発生せず、日本の他の地域が徳川期にいたるまで安土城や大坂城のコピーをさかんに造ったときも、薩摩ではその流行を無視した。

こんにち「城山」とよばれている鹿児島城(鶴丸城)は、すでに安土城や大坂城が出現したあとの築城で諸国にその模倣が流行しているころだったが、しかし依然として天険に依存する中世様式の城で、人工の部分はきわめてすくなく、ひるがえって思うと当時の薩摩人がいかに中央の流行に対して超然としていたかがわかる。
鶴丸城跡(鹿児島市)
まして鶴丸城よりも一時代も二時代もふるい蒲生の竜ケ城などは、一山をもって巨大な山塞としているような素朴な城である。

島津氏の三州(薩摩・大隅・日向)統一事業が完成するのは戦国末期だが、それまでの蒲生郷は一個の小独立地帯で、蒲生氏という神主あがりの土豪がこのあたりを支配していた。南方から島津氏の軍勢が攻めこんできたときかれらは激しく戦った。
蒲生どんの墓
とくにこの竜ケ城をめぐつて凄惨な攻防戦があった。土地ではその籠城戦のさまぎまな伝説を、ほんのきのうの出来事のように語りつたえている。

昭和63年7月18日浩宮殿下が蒲生町を訪問される
NHK大河ドラマ「山河燃ゆ」(原作:山崎豊子「二つの祖国」)の主人公、天羽賢治(実名は伊丹明)のロケの一部は主人公が鹿児島出身のこともあるが武家屋敷のたたずまいが残る蒲生町が撮影の舞台となる。
撮影の合間の天羽兄弟(松本幸四郎さんと西田敏行さん)

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