われわれは土地の学校の校庭に立って、竜ケ城を遠望している。須田画伯が、この眺望のかなたに隆起する竜ケ城の姿を写生していた。そのそばに、蒲生の四人衆がおられる。小山田町長とサムライ会社の三人の役員さんたちであった。その四人衆のうちで「私は最も若輩で」といわれる五十幾歳かの野村豊一氏が、「あの山(竜ケ城)にはビルほどの大きな岩の断崖がありまして、そこにいつの時代に誰が彫ったともわからぬ梵字(ぼんじ)が千六百個ほど残っています」
といったことが、須田さんをはげしくゆさぶったらしい。にわかに筆をとめた。 私は内心、野村さんまずいことをいってくれた、と当惑した。須田さんが行こうと言いだすにちがいないとおもったのである。
須田さんは具体的なものよりも象徴的なものや抽象化された世界にひどく心をうごかすひとなのである。戦前この人は官展系のK会に属して特選を二度ももらいながら戦後その居心地のいい場所をすてて国画会に入り、やがて抽象画を描くようになった。日展に属してさえいれば俗なことながら画壇序列からいってすでに芸術院会員になっているはずの齢だし(なったところでエライとはおもえないが)またあのまま具象画さえ措いていれば生活の上でもうまいことが多かったかもしれない。が、須田さんはそうはいかなかった。かれは道元に遭遇し、その抽象的世界にショックを受けてからちょうど西行のように 「私は梵字が好きです」
と、須田さんは言いだした。梵字というのは元来古代インドの文字にすぎないものだが、真言密教はそれに重大な象徴性を託して神秘化したり、呪術化したりした。須田さんには神秘的嗜好はないが、梵字の象徴性やその抽象画のような形象にひどく魅(ひ)かれるものがあるらしい。 魅かれるのはむろん須田さんの自由である。ところが須田さんは魅かれたとなれば矢もたてもたまらなくなるひとで、竜ケ城への距離感や、竜ケ城に登ることの大変さなどは計算要素に入らなくなってしまう。あとで、町長さんらが、 ―― 野村君もえらいことを言いだしてくれたな、とびっくりしました。 と笑ったが、竜ケ城の梵字をぜひ観せたいという野村さんと梵字好きの須田さんが、この赤茶けた校庭で双方のボディが音をたててぶつかりあうようにして抱きあったのである。 結局、われわれは須田さんに曳(ひ)かれるようにして竜ケ城へ出かけた。 さいわい、町役場が一台ライトバンをもっていた。それに乗り、悪路にゆられながら山のそばまでゆき、あとは「ほんのそこです」ということだったが、かか道を右にゆき左にゆき、結果としては1キロほど歩いたように思える。そのあぜ道のはてに、難攻不落の山が隆起しているのである。 山はなるほど島津勢が攻めあぐんだといわれるだけあって、険路だった。というより路がなかつた。先達(せんだつ)が樹の幹や枝をつかみ、腐葉土を踏みかためつつ登ってゆくあとをかろうじてくっついてゆくのである。私は四十八歳でしかないが、若いころから急坂がにが手で、この体質はすこしもなおらない。途中、呼吸運動がせわしくなり、心臓がのどから飛び出しそうになった。とこ ろがサムライ会社の役員さんたちは、七十七歳の瀬之ロさんも同年の山口さんも途中談笑しながらよじ登ってゆくのである。須田さんも、とっくに六十歳をこえているはずであり、しかも天性虚弱ということながら、菜ッ葉服の背中に三貫目ほどの黒草カバンを背負い、胸もとに大きな画板をぶらさげ、枝や草をつかんでは体を持ちあげてゆく。梵字がもつ呪術性が、須田さんに魔力をあたえているのかもしれなかった。 しかも須田さんは足もとの植物にまで目をくばるゆとりがある。
「ほら、ニオイスミレです」
「あ、シャガもあります」
「おや、キンポウゲもあります。これをごらんなさい、タラの樹です」
「ね、そこです。それが山ミツバ。それに薮茗荷(やぶみょうが)もあるはずです。こういう感じの山ならかならがあります」 | ||||
「蒲生城(竜ケ城)磨崖梵字(まがいぼんじ)」
といわれているものが発見されたのは、ほんの数年前である。これを実地に調査したひとはこの山の風にあたって風邪をひき、それがもとで病没された。しかしその努力のおかげで多くのことが判明した。 なんとおどろいたことに、弘安四(一二八一)年の蒙古襲来に備えての敵国調伏(ちょうふく)のための梵字も彫られていたという。その時代のこの蒲生の歴史がよくわからず、いわばは史学的には空白期にちかいのに、石に刻まれた古代インド文字は雄弁にこの地にすでに密教の修験者(しゅげんじゃ)がいたことを証拠だてている。 山の中腹へたどりついた。 そこから上は灰色の岩である。その切り立った平面の岩肌に無数の梵字がきぎまれていた。敵国調伏もあれば、妻に死なれた人がその菩提(ぼだい)をとむらうために彫りつけたらしいものもある。この切り立った岩肌の高さ二〇メートルほどで頂上のあたりに蔦(つた)が這い、幅はぎっと二〇〇メートルほどもあるという。彫られているのは梵字だけではなく、夭折(ようせつ)した児の冥福をとむらったらしい地蔵の像もあれば福徳をねぎらうための大黒天も稚拙な線画できぎまれている。修験者が法力を得たいとおもってきぎんだ不動明王もあった。もっとも不動明王は写実ではなかった。梵字の一劃(いっかく)一点をそれらしく躍らせることによってそのかたちを暗示しただけの、いわば抽象画の不動明王というめずらしいものだった。これらの梵字群の時期は鎌倉初期なのか後期なのかまだよくわからないという。さらにはこういう宗教習慣はその後の蒲生では絶えているから、これを説明するためのいかなる伝承ものこっていないというのである。 「めずらしいですね」
と、須田さんは不動明王の抽象像には感歎の声をあげたが、私が感じためずらしさは、縄文・弥生の時代のものではなく伝承や記録の豊富な十三世紀以後の日本で、「これらをきぎんだ理由も、それをきぎんだひとびとについてもまったく謎です」という野村豊一氏の説明のほうであった。
「自分は藤原氏の末裔(まつえい)だ」 この梵字群を見ていると、連想が大規模になってわれながら恐縮せぎるをえないが、カンポディアの密林のなかにうずもれていたアンコールワットの遺跡に通(かよ)うなにかを感じさせる。アンコールワットの遺跡は十二世紀ごろまで栄えたクメール族の事業だといわれている。ところがカンボディアの地にタイ族が侵入したとき、クメール族はまるで蒸発するように消えてしまい、この都も密林のなかにうずもれ、忘れられてしまった。 「蒲生氏の城はこの自然の岩を石垣として、この岩の上に城館などがあったのです。岩の上はいまでも”馬乗り場″といわれて、相当ひろい広場もありますが、どうしますか、登ってみますか」と野村氏が勢いこんだが、さすがの須田さんもあわただしくかぶりを振った。 |