このたび、西郷南洲先生の没後満百年の記念すべき年を迎えるにあたり、県・市町村・県内の諸団体並びに各地区県人会が西郷南洲百年記念顕彰会を組織し、記念の諸事業を行なうこととなった。
その一つとして、「西郷南洲先生遺訓・口語訳付」を刊行するもので、本書は先生の遺訓・遺詠に現代語訳を付してまとめたものである。
南洲先生遺訓というのは、先生が生前語られた言葉や教訓を蒐録したものであるが、この編纂は薩摩においてではなく、実に東北地方の旧庄内藩(今の山形県鶴岡市附近)の藩士たちの手によって刊行されたところに特色がある。
庄内では明治二十二年憲法発布の盛典に先生の賊名が除かれ贈位の御沙汰があると、それまで伏せていた遺訓を翌年一月作成し、四月から六人の士がこの遺訓を携えて全国を行脚巡回し、広く頒布したと伝えている。
それではなぜ遺訓集が庄内から出版されたのであろうか。
明治維新の前夜、戊辰戦争の時最後まで抗戦した庄内藩は、遂に城を明け渡し厳罰を覚悟していたが、何らの恥辱も受けず、その戦後処理はきわめて寛大であった。
後日その命令が西郷南洲先生の指図によることを知った庄内では、藩主以下諸将が先生の人徳の偉大なることに感服し、親書をもった使者を鹿児島に派遣し、島津公と南洲先生に親交を懇請した。
そして、藩主酒井忠篤公以下七十名が鹿児島を訪ね、親しく先生の教えを受け、その後も庄内藩士が引き続いて先生を訪ねているが、その時の手記を持ちよって遺訓集を作成したと伝えられている。
遺訓の構成は、本文四十一則、追加、補遺まで合せても五十三則という短いものであるが、その内容は人倫を説き、学問について述べ、あるいは政治のあるべき姿を明解に指摘している。
また、先生は和歌と漢詩を数多く残しておられるが、その中から和歌八首、漢詩二十二編をとり上げ解説を加えてある。
これらの中から先生の偉大な精神を汲みあげるとともに、明治維新当時、鹿児島に結晶した日本伝統の確固たる死生観や修養観の一端が理解される一助になれば極めて幸いである。
なお、鶴岡市の致道博物館発行の遺訓集にある副島種臣の筆による序文、庄内藩士の趣意文及び南洲先生の遺墨は見事な筆致のものであり、それらをそのまま今回の「西郷南洲先生遺訓・口語訳付」の巻頭に飾らしていただいた。
最後に、本顕彰会に賛助された心ある方々と、本書口語訳にあたられた鶴田正義氏に、心から感謝の意を表したい。
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