政界に隠然たる力をもつ謎の男
東京・台東区の谷中墓地にほど近い所に全生掩という禅寺がある。中曽根はこの庵で一咋年十一月二十日の夜。総理大臣に決定する五日前、座禅を組んだ。
総裁予備選のまっただ中であった。その夜八時ごろ、血盟団事件の中心的人物であった古山栄一が全生庵に行った。古内は、やはり血盟団事件の同志であった四元義隆に頼まれて行ったわけである。
しはらくして、中曽根と中曽根の派の長老である稲葉修が来た。
古内は、四元から「中曽根さんに何か話してくれ」と頼まれた。四人で庫裏(くり)の別室へ行き、お茶を飲んだ。古内は、中曽根に言った。
「日本の本当の意味の首相になるには、小我を捨て、超人にならんとする覚悟でやれ」
九時になると、四人そろって座禅を組みに本堂へ行った。それから十一時まで、二時間座禅を組んだ。平井玄恭禅師の指導で、四人が座った。
座り方は、正面向かって左側に、中曽根と稲葉。右側に四元と古山が座った。
つまり2人がそれぞれ対面する格好であった。四人は黙々と座ったままだった。
一時間たち、十時になると、玄恭が、重々しい声を発した。
「径行(ちんしん)」
四人とも座禅をやめ、本堂の中を歩きだした。黙々と十周ぐるぐるまわった。
やがて、ふたたぴ十一時まで座禅を組んだ。同じころ四元は、中曽根の件でかつて″財界四天王の一人と謳われた日本興業銀行相談役・中山素平に会っている。
四元は、中山に会い、頼んだ。「どうしても中曽根は、行革をやらなけれほならない。ついては、第二臨時行政調査会の土光敏夫会長をぼくは知らないので、紹介してほしい」中山は、すぐに土光に会えるよう段どりをつけた.四元はさっそく土光に会った。四元は、土光に頼んだ。
「中曽根に、きちんと行革をやるよう土光さんから叱咤激励してほしい」四元は、「大事は軽く、小事は重く」の葉隠れ精神をあらわす言葉が好きである。中曽根に行政管理庁時代を忘れ、行革をないがしろにしてはいけない、ということを徹底させようとしたのであろう。
鈴木派の衆議院議員・加藤紘一によると、四元は、田中角栄を除けば、すべての総理大臣経験者に、直接電話をかけられる人物だという。そ心だけ政界には隠然たる力がある。四元が政界で現しい人を順番にあげると、最近では、一に中曽根、二に福田赳夫、三に鈴木善幸、その次が、故大平であった。とくに中曽根を、自分の息子のように可愛がっているという。
読売新聞に「中曽根さんの一日」という欄がある。それをめくると、四元が、昨年は、二度官邸を訪ねていることがわかる。最初は、一月六日。「午後二時十分、四元義隆・三幸建設代表取締役」となっている。この日、二時三十分まで面談している。二度目は、一月十六日、午前九時だ。今年も、三月三日、九時三十分に官邸を訪問している。
四元と四十年来の親交のある元・毎日記者の永淵一郎によると、四元と中曽根は、しょつちゅう会っている。新聞に出る以外にも、何度か非公式に会っているという。
「用件があれば、二人ほ電話で連絡をとり合う。一カ月に数回は会っていますょ。それだけ中曽根は、四元さんを頼りにしている。精神的なものだけじゃない。政治的な判断も仰いでいる。なにしろ、四元さんは、戦前の近衛文麿内閣以来、戦後は、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作の相談役を務めてきている。政治の表裏をつぶさに見てきている。政治は、、なにより経験がモノを言う世界ですからね。たとえは、右か左か、という場合、論理では決着がつかない。ところが四元さんは、禅的判断もあるから、明確に決断する。そういうところを、中曽根は頼りにしている」
なかには、四元義隆こそ″昭和の最後にして最大の黒幕″と呼ぶ人すらいる。にもかかわらず彼はこれまで皆無といっていいくらい、マスコミに登場していない。驚くべきことに、『日本紳士録』にも、『人事興信録』のどこにも、社会問題研究会編の『右翼辞典』にすら、中曽根康弘の名こそあっても、四元の名はない。
まったく謎に包まれた人物である。
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