血盟団事件で牧野伸顕を狙う

 四元義隆は、明治四十一年に、鹿児島に生まれた。今年で満七十六才になる。郷土の英雄・西郷隆盛の祖母は、四元家から嫁いでおり、西郷とは、血縁関係にある。

 血盟団事件で三井財閥の団琢磨を暗殺した菱沼五郎(現在、小幡五郎と改名)は人物も容貌も、西郷隆盛を彷彿させると、四元を評している。

 四元義隆は、松原小学校から鹿児島第二中学校(現・甲南高校)、やがて、第七高等学校(現・鹿児島大学)に進学。第七高等学校には、のちに血盟団事件の同志となる池袋正八郎が剣道部の主将として在学中だった。四元は、柔道部の主将として活躍する。腕は五段。剣道の腕前も相当なもので、示現流で鍛えている。示現流は、受け太刀なし。斬り込みのみの剣法である。飛びかかり、ひと太刀で上段から袈裟懸けにする必殺剣である。ただし、失敗したら、死ぬしかない。死ぬ覚悟で、相対する。

 聡明な四元は、東京帝大の法科に進み、「七生社」(右翼組繊)を主宰する上杉慎吉博士の弟子になった。ところが、上杉博士が死に、安岡正篤の私塾金鶏学院に入った。金鶏学院は、安岡流の日本学を学び、日本の思想を勉強する塾であった。ここで血盟団の盟主、井上日召と知り合う。

 井上日召や海軍の士官連中のいた席でのことであった。井上日召が、突然言った。

「四元、おまえ、示現流をやってみろ」

 四元は、選ばれた木刀を持つや、さっそく立ち上が」た。

「ちぇすとッ!」

と、猿のような、人間離れした示現流独特の凄まじい声を発し、木刀で切り込んで見せた。

 その瞬間に、井上日召の片腕であった古内は感動の思いにとらわれていた。

(この男は、本物だ。この男とは、一体にやれる)

 昭和四年十月二十四日、ニューヨークのウォール彷の株式市場で大暴落。世界経済恐慌がはじまった。恐慌の嵐は、一週間も経たぬうちに日本を襲った。六年九月十九日には、活路を開くため、関東軍が奉天を占領、満州事変が開始された。

 このような背景のもとに政党政治の腐敗が叫ばれていたが、日蓮宗の僧侶・井上日召は、日本の行き詰まり状態の根源を「政党・財閥及び特権階級互いに結託し、ただ私利私欲のみ没頭し国防を軽視し国利民福を思わず腐敗堕落の政策に依る」ものとみなした。そのため、財界、既成政党およぴ特権階級を、「一人一殺」をもって打倒.皇室中心主義を基調とする反資本主義的社会改革を行なわなければならない。そう考え、血盟団の同志により、″一人一殺″を実行に移していった。

昭和七年二月九日、井上準之助前蔵相が射殺された、いわゆる″血盟団事件″が起こった。

四元は、このとき内大臣・牧野伸顕を狙ったが警戒が厳しく、成功しなかった。が、裁判では、共同正犯の非を問われ懲役十五年を宣告された。井上準之助射殺に成功した小沼に海軍のピストルを渡していたためであった。

四元は、昭和九年暮れ、懲役十五年の判決を受け小菅刑務所に入った。

 つづいて、武装共産党中央委員長であった田中清玄も入ってきた。彼は、獄中で母の自刃を知り、転向。戦後は、六〇年安保のとき、革命勢力と対決、全学連委員長・唐牛健太郎に金を渡すなどの暗躍をしている。

 田中清玄は、当時の伊江朝睦所長に嘆願した。

「このままだったら、ろくな人間にならない。『葛飾』という月一回の新聞の発行と、俳句の会・和歌の会、相撲部、野球と四つの部を許してほしい」

 ところが当局は、「とんでもない!」と許そうとはしない。

 困った田中は、「それでは…」と四元を立てて交渉させた。

 四元は、寡黙な男であった。いちはん肝心なことだけ、ズバッと言う。

田中の眼には、まるで西郷隆盛のように映っていた。

おかげで、お許しが出た。

 四元は、獄中梁山泊ともいうべき刑務所内で、雑誌発行などの総元締めをやっていた。雑誌には、左翼の連中の作品も掲載していた。左右を問わず採用したというのは、四元ならではのことであった。田中は、あらためて四元に感心していた。

 <ほかの右翼の連中には、こんな度量はいな……>

四元は、獄中に山本玄峰老師を招き、講演をしてもらっている.老帥は、禅の大家で、血盟団事件の特別弁護をやった人物である。 

四元も、獄中生活は、きつく、げっそりと痩せた。しかし、獄中は、いい座禅の修行になった。

  四元は、獄中の仲間の北原勝雄によく言う。 
  「達磨九年、おれ十年……」

 
獄中で、四元の人物ができた。精神的には、筋金入りになった。ある意味では、この時期、禅の悟りの境地に近づいたのかもしれない。

  四元は、玄峰老師の弟子になることによって人生を変えていく。田中清玄もまた、しかり。  昭和十五年、四元は恩赦で出はする。


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