生年不明、元文二年三月十九日死
藤左衛門の父は、帆足喜左衛門親次といい、蒲生郷漆村の衆中である。
藤左衛門は、種子島次郎右衛門時貞の弟子となり、示現流の剣法を学んだ。時貞は和田讃岐守の嫡子で、種子島時任の養子となる。実母は東郷重位の娘であった関係で、東郷家の示硯流を志し、東郷重利の高弟となった。時貞は古来の示現流に自分の工夫を加え、新しく伝書二巻の大巻物も作ったので、宗家の東郷重方は、これを邪法と考え、真の奥義を伝授しなかった。そこで時貞は、自ら工夫した新示現流を、なんとか世に広めようと思っていた。従兄弟の東郷宗家嫡流重利は、年齢が時貞より若かったので、時貞から技を学んだりしたが、しかし、流派系図の上では、時貞を重利の弟子とする。
帆足藤左衛門は、種子島家で修行すること多年に及び、時貞流示現流の奥義に達した。 そこで、自らも師となり、世に・当流を広めたいと思い、まず加治木島津家の家臣、江夏五右衝門を弟子として稽古させたところ、メキメキ上達した。これを見開して、あちこちから藤左衝門に弟子入りする者がふえ、藤左衝門の剣法を、世に帆足流と言うようになった。
弟子の一人に、日置島津家の家臣、中原喜左衛がいた。中原も帆足流に練達し、主君の島津久寿に勧めて、自分が師となり帆足流を学ばせた。
後年になり、久侶は藤左衛門を鹿児島に招いて直接、藤左衛門から直伝を受けたいと望んだが、藤左衝門は老齢であったので、とても鹿児島まで行けないといって断った。
それではということで、久楕いたので、藤左衛門も心岳寺に至り、ここで直伝を与えたのである。 藤左衝門は、元文二年(一七三七)三月十九日に死んだ。法名超山祝越居士、漆の洞谷山喜新寺に葬った。子孫は帆足馨氏である。