生年不明、宝暦四年四月三十日死
茂右衛門の祖父は野村内匠賢綱といい、父は内匠の二男利兵衝である。茂右衛門は、野村本家(辰志家)から、無高で分家した父の跡をつぎ、家業の紙すきに精出し、元文三年(一七三人)には、知行四升一合二勺、宝暦三年(一七五三)には三升一合二勺を得ている。
宝暦四年(一七五四)二月、幕府の命令によって、木曽川治水第一期工事が始まるや、茂右衝門も此の工事に出役した。幕府の命令のため、地元の待遇は極端に悪く、民家の馬小家に寝とまりし、一汁一菜という粗食のもとに、日夜工事に精出した。昨日までは刀取る手に鍬を持ち、モッコをかつぎ、島津藩の大事と考えて、幕府役人の意地悪い悪口
にも堪え、力の限りを尽くしたのであるが、あまりの役人の非道な仕打ちに、とうとう四月十四日、永書惣丘ハ衛と音方貞渕が切腹して果てた。そして、四月三十日には野村茂右衛門も切腹したのである。故郷に、その悲報といっしょに、血染めの肌着が届けられた。家では、ちょうど、五月の節句のマキ作りが始まっていたが、ガラリと仕事を止めて、葬式に取りかかったのである。 法寿寺の墓には、その形見の肌着が埋められ、上に笠塔婆を建て
祥林祖禎居士 野村茂右衛門受宝暦四甲戌天四月晦日 と彫った。
マキ用に煮ていた米は、マキに作らず、ズシ(雑炊)にして、何日も食べたと伝える。 以来、此の野村家の人々は、五月節句のマキを作らぬ風習となったが、大正時代ごろから、子供にせがまれ、今ではどの家もマキを作っているようである。
治水工事当時、島津藩では幕府に遠慮して、切腹者は「腰の物にて怪我いたし」と死因を書いているほどなので、切腹者の家族も、悪いことをしたかの如く、ひっそりとして言いふらさず、ために野村家でも口伝だけで、書いたものは残っていない。茂右衛門の墓は、子孫の野村盛樹氏が納骨堂にしたため、現存しない。
〔備考〕 桑名の海蔵寺にある、薩摩義士切腹者野村五郎右衛門の墓は、宝暦四年八月十四日死去、法名功岩良節居士となっており、茂右衝門とは別人である。 また、茂右衛門の子孫で、支流の野村正二さんの妻マツ子さんは、もと加世田の山元氏で、その祖先の山元八兵衛は、木曽川治水工事の時、勘定方を勤め宝暦四年十一月二十一日に切腹、法名悦岩共・居士といい、墓は海蔵寺にある。奇しくも薩摩義士の子孫同志が結婚し、先祖の家業の紙すきに励んでおられる。 文責 松永守道