有村隼人貞増(ありむらはやとさだます)

生年不明、正徳三年十月十四日死

 父は有村市左衛門貞隆、母は吉田士池田氏の娘。有村本家の隼人貞昌に嗣子がなかったので、支流から入って、貞昌の養子となった。初め大蔵、清右衛門と杯し、後、隼人を襲名した。正徳三年(一七一三)十月十四日死去、法名傑山宗英居士、永輿寺に葬った。

七代の孫、甚四郎が明治二十八年(一八九五)西県内国博覧会に、自宅の米丸井手平の竹山の、孟宗竹を出品した時、その趣意書に、「私七代ノ狙有村生丁人、貞享元甲子年、薩摩国南伊佐郡蘭牟田村旧領主樺山家ヨリ、壱株ヲ貰ヒ受ケ、移植シクルモノナリ」とある。

 貞享元年は、西暦一六人四年である。今までの孟宗竹起源説は、「薩藩の文化」に書かれているとおり、「元文元年(一七三六)(島津)富貴琉球より二株を得、磯別邸に植う。此所を九州以北に孟宗竹の普及せし発祥地なりとする」が信じられている。しかし、有村甚四郎の此の記録によると、磯の孟宗竹より五二年早く蒲生に植えたものということになる。

 有村婦家、穆尚(よしひさ)家の系図にも、甚四郎の孫、有村次彦家の系図にも、此の隼人貞増は書かれているが、傍註に此の孟宗竹のことは書かれていない。

代々口伝として語り伝えてきたものであろう。蘭牟田の樺山家の記録も見せてもらったが、孟宗竹を得たことも、有村隼人に与えたことを見えず、口伝も残っていない。しかし、樺山家の阻、権左衛門尉久高は、慶長十四年(一六〇九)流球出兵の大将として、琉球に渡っているので、同地から孟宗竹を持ってきたものかもしれない。北開牟田に薩藩最初の孟宗竹が‥植えられたことも伝えていないので、蒲生の大字米丸、小字井手平の孟宗竹が始まりとなるものであろう。

 惜しいことに、井手平の孟宗竹は、ほとんど桧と杉山に造林され、わずかに数本の孟宗竹が残っているのみである。

 幕末の弘化四年(一人四七)に、島津宰相公(斉輿)が蒲生御巡見の時、有村覚右衛門は、目通り二尺四寸まわりの孟宗竹を献上しているし、島津斉稗は奥山藤左衝門に命じ、有村覚右衝門から孟宗竹五十本を買上げ、始めて磯で竹器製造を行なったと、前記甚四郎の記録にある。有村家と孟宗竹は、誠にゆかり潅いものがあると言わなければならない。   文責 松永守道


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