島津図書頭久通(しまずずしょのかみひさみち)

慶長九年十二月二十九日生、延宝二年十一月三十日死
 父は宮之城領主、島津下野守久元、母は新納弥太右衛門忠増娘。久通は寛永四年(一六二七)島津家久に従い、江戸に行った時、荒木氏に学び馬術の伝授を受ける。また、寛永十四年(一六三七)病気の家久の名代として江戸に登り、家久の口上を将軍に伝えた。
 寛永十七年(一六四〇)三月、長野の山中に金を発見し、初めて金を掘らせ、徳濾様として敬われた。同十人年、島津家系図編纂に従事する。
 正保二年(一六四五)島津藩主光久の家老となり、鋭恵殖産に力を入れ、蒲生の地質が植林にむいていることと、X字形の谷川が材木運搬に通していることから、蒲生に杉の植林を勧めた。彼は、江戸杉の実を持ってきたり、土佐の家老桐間将監から良い杉苗を送ってもらったり、屋久島杉の実から苗を育てるなど、いろいろ育苗に工夫をこらし、今日の蒲生メアサ杉の端緒を開いた。これに従って、林業制度も漸次確立され、夫役によって造林した公物山(藩林)、地頭や諸役人に命じて公衆と共に植林させた御造林(公有林)、だれでも申し出て許可を受け、植林した人別差杉山(部一山)など、だんだん杉の緑がふえていった。人別差杉山は分収林として定められ、植林後十六年めに、その成長の状況、手入れの善悪を調べ、藩と仕立主との分収の割合を定めた。その割合は、二公人民、三公七民、四公六民、五公五民の四等に分けた。
 このころ以来、棺林は良い穂を取って、差杉する方法が行なわれた。久通のお陰で、蒲生はりっぱな杉の美林が多く、ために、昭和四年(一九二九)鹿児島県林業試験場も設置されたのである。
 久通はまた、蒲生の十石以下の貧窮郷土救済のため、紙すきを奨励した。その一策として、長門や周防から、カジの苗木を取寄せ、紙すき師匠松岡美濃を招いて、製法の伝授をさせるなど、紙業発展の基礎をつくった。

 此の姶良地方では、祭良平安の昔から、紙作りは、なされていたが、旧態を細々と守るだけであった。それに活を入れて、大々的に生産を図ったのが久通であったといえる。久通はその外に、宇治から茶の実を取寄せて、茶の生産を図り、桐油の植裁を勧め、承応三年(一六五四)伊集院地頭になった時、伊集院術道に松並木を植えさせた。

 延宝二年(一六七四)十一月三十日死。享年七十一才。法名・湛水院徳源道智大居士。墓は宮之城宗功寺墓地にある。                                         文責 松永守道


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