池田六左衛門貞秀(いけだろくざえもんさだひで)

永禄元年生、元和五年八月十六日死

 父は池田土佐守。貞奔は、天正年中(一五七三〜一五九一)飯野に居城していた島津義弘の、御軍談合人数五十四人の内に入っている。伊東合戦や肥後、豊後の戦争に従軍して武功あり、小田原攻め・朝鮮の役・庄内の役には軍監として良く教導し、慶長五年(一六〇〇)には、出水境目の足軽大将として肥後軍の侵入に備え、よくその使命を全うした。義弘は彼の功に報いるため、知行百石を与えている。

 元和五年(一六一九)七月二十一日、義弘が加治木の館でなくなった時、貞奔ら七人は、加治木の実窓寺川原で、八月十六日に殉死切腹した。貞奔享年六十二才。法名孝翁永治居士。加治木大樹寺に葬ったが後、蒲生永輿寺に移した。昭和六年(一九三一)墓を上ノ原墓地に移した時、貞秀ら先祖かたしろの墓は破壊して埋めたので現存しない。形代の地蔵塔は、伊集院の徳重神社境内にある。

 当時、殉死は禁制であったので、池田家は知行屋敷等すべて没収され、苦しい生計を送ったが、十三年後の寛永九年七月九日、許されて知行屋敷等、元のように腸わった。三十三年忌に当り家老島津弾正久慶は、殉死者の家を訪れ、丁重に手向けの歌を献じた。貞奔への歌は左のようである。

 いとはやもうつりきにける三十払弥り三とせのけふを涙さへしる 
子孫は、後田の池田ミチ氏や、迫の馬渡一夫氏等である。 文責 松永守道


蘭牟田縫殿助(いむたぬいのすけ)

生年不明、元和五年八月十六日死

 父母名不詳。縫毀助は、若くして島津義弘に仕え、忠勤を尽くす。元和五年(一六一九)七月二十一日、義弘が加治木の館でなくなった時、縫段助ら七人は加治木の実窓寺川原で、八月十六日に殉死切腹した。縫殿助、享年十八才、法名真翁宗天居士。永輿寺に葬ったが、墓は今、子孫の手で川東法寿寺墓地に移されている。

形代(かたしろ)の地蔵塔は、伊集院の徳重神社境内にある。

 当時、殉死は禁制であったので、蘭牟田家は知行屋敷等を没収され、生計に苦しんだが、十三年後の寛永九年七月九日、許されて知行屋敷を元のように腸わった。

 三十三年忌に当り、家老島津弾正久慶は、殉死者の家を訪れ、丁重に手向けの歌を献じた。縫殴助への歌は左のようである。
 霧ならて消もかへらぬ人の世に  あふょり珠に悲しかりける 
子孫は川東の蘭牟田イ子氏である。   文責 松永守道


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