阿多長寿院盛淳(あたちょうじゆいんもりあつ)

生年不明、慶長五年九月十五日死
 父は畠山頼国。長寿院は幼少より出家して、紀州根来山や高野山で勤行し、帰国して鹿児島の安養院住持をしていた時、島津義久から召出され、遂に家老となった。

 天正十五年(一五人七)義久の供をして秀吉にまみえ、以来小田原陣、朝鮮の役、庄内の役に従軍、慶長五年(一六00)関ケ原合戦には、蒲生地頭として蒲生士七十人を引率し、八月上旬、山川より乗船、兵庫に上陸、あと隆行して九月十三日、西軍として大垣にあった島津義弘の陣に参着した。義弘は非常に喜んで、長寿院に金の軍配団扇を与えた。

 関ケ原の合戦に西軍は敗れ、島津義弘は果敢な敵陣突破を強行し、牧田までおちた時、多くの東軍に囲まれ、もはやこれまでと馬を敵陣に向けた。長寿院は此の朝頂戴した義弘の陣羽織を着け、義弘を強くいさめ、十文字の‥旗をもらって、「島津兵庫入道義弘は我なるぞ」と大昔に名乗り、義弘の身代りとなって敵中に突入奮戦した。義弘は此の間に危地を脱し、駒野のほうに南下することができた。
 長寿院は数本の槍に貫かれ、花々しい戦死をとげた。従う蒲生の武士も、和田奔存坊・新保善左衛門・野付喜右衛門尉・野村与右衛門・池田治介・上原勘内・土持護兵衛・福崎甚作・長野助十郎・森二郎・黒木伸一と、次々に十人人が戦死した。
 長寿院享年五十三才。法名一起日純居士、墓は岐阜県養老郡牧田の淋光寺(りんこうじ)にある。蒲生地頭時代の知行は二百石であったという。長寿院と共に戦死した、蒲生士十人名の仮墓も、淋光寺の長寿院の墓のまわりにあり、ただの自然石の丸石である。        文責 松永守道


谷口六郎重昌(やぐちろくろうしげまさ)

天正十二年九月十三日生、寛永九年十一月五日死
 父は谷口長門守重定、母は原将監の娘で、重昌は日州穆佐(むかさ)で生まれた。文禄四年の冬(一五九五)父垂定と共に蒲生に移った。慶長四年(一五九九)父に従い、伏見の島津義弘の許に参候した。
 慶長五年(一六〇〇)東西の風雲急となり、八月一日、石田三戌の隊が、徳川方の伏見城を攻め落とした時、重定、重昌は父子共に従軍したが、重定は負傷し、関ケ原合戦に行けなかったので、息子の六郎重昌だけが義弘に従軍した。重昌時に十七才。
 九月十五日、関ケ原の大決戦が行なわれ、石田の西軍は敗北した。義弘は敵中突破を敢行し、鳥とうざか頭坂に甥豊久らを、また牧田に阿多長寿院とその従兵(蒲生士)を失ない、駒野から伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉と、苦難の帝路をたどつた。この間、谷口六郎重昌は、片時も義弘の側を離れず奉公に励んだ功により、同年十月十日に加増五〇石の知行を受けた。終始義弘を守り、行を共にしたのは、頴娃弥一郎・谷口六郎等七十五人であった。
この後、蒲生では士分の者三百余人を四組に分け、それぞれ組頭を定めたが、六郎重昌は、敷根但馬守、野村書左衝門尉、赤塚五兵衝尉と共に組頭となり、晩年には地頭代となった。
 大守家久の供をして、江戸にも二度登ったが、その二度めの江戸在府の時、病にかかり、帰国療養するも甲斐なく、尭永九年(一六三二)十一月五日、四十九才で死去した。法名昌山仝久居士。永輿寺に葬ったが、墓は昭和六年移転し、現在高崎墓地にある。関ケ原五十石加増の感状と重昌の軍陣お守袋は、子孫の谷口重好氏(八幡)宅に現たけする。            文責 松永守遣


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