蒲生美濃守清寛(かもうみののかみきよひろ)

生年不明、応年二四年九月十一日死
 父は蒲生氏十一代領主彦太郎清冬。清寛はその後を継ぎ十二代領主となり飛弾守と移した。島津元久、久豊両藩主の家老として、藩政のために良く尽くした。

 応永八年秋(一四〇一)渋谷一族の東郷、祁答院、入来院、高城(たき)氏は、一族でありながら島津元久に通じていた鶴田重成をにくみ、鶴田城を攻めた。蒲生清寛は元久の部将として、鶴田救援に赴いたが、島津伊久が渋谷一族を助けたので、これを打破ることができず、鶴田重戌は城を出て、元久の命により谷山の山田に移された。この戦功により、清寛は谷山三〇町を加封された。応永十七年(一四一〇)島津元久は京都に上洛して、将軍足利義持に拝謁した。この時、清寛も随従して、美濃守に任ぜられたので、その礼に大刀一腰と料足百貰を献じている。

 応永二十年(一四一三)清寛は島津久豊と共に、伊集院頼久を原良に攻めた時、頼久は逃れるすべなく自害しょうとした。清寛は吉田清正といっしょに、久豊に頼久の命ごいをして助けてやった。応永二十四年(一四一七)九月、川辺の松尾城主酒匂紀伊守は、その主島津犬太郎に背き島津太守久豊に内通したので、犬太郎を助けて伊集院頼久は、酒匂の松尾城を攻めた。酒匂を救

うため、久豊は清覚ら部将と共に、九月十一日、頼久と薙野原(なぎのはら)に戦ったが敗れ、清寛は奮戦空しく、一族中原某と共に戦死した。墓は川東の蒲生どん墓にある大五輪塔で、十月十四日の日付になっている。これは墓をたてた日であろう。法名了山道悟庵主。清寛は産業にも力を入れ、青色野牧を開いたという。また、大定山永輿寺を建立し、叔父の量外和尚を開基として領内の菩提所とし、瑞応山法寿寺を建立し、叔父の正曇和尚を開基とし、蒲生家の菩提寺とした。両寺とも明徳年間(一三九〇〜一三九三)の建立であるという。 文責 松永守道


蒲生越前守範清(かもうえちぜんのかみのりきよ)

生年不明、死去不明
 蒲生家十七代茂清の嫡子で、蒲生家十八代の領主となるべき人であったが、島津氏に背き蒲生を落城させたので、十八代当主には入れてない。
 父は、種子島家より蒲生家に養子に入った越前守茂清(天文十九年死)、母は蒲生家十六代十郎充清の長女である。天文二十三年(一五五四)範清は祁答院氏と協力して、島津方についた加治木領主肝付以安を攻めたが、島津貴久は加治木の後援をして帖佐に兵を進め、蒲生方の岩剣城を攻め落としたので、範清らは加治木より兵を引いた。

 天文二十四年(一五五五)偽計により、島津軍を北村城下に誘い、数十人を斬獲して大勝利をあげた。
 弘治二年(一五五六)三月、島津軍は松坂城を守る蒲生氏の部将中原加賀を攻めたが勝たず、同年十月再度総攻撃をかけて、やっと攻めおとした。つづいて漆を守る楠遠江守が指揮下の栴野城、松元城、本南陣、遠江ケ塁を攻めおとした。そこで、島津軍は、尼ケ城、馬立、貝皿、七由に障を取り、蒲生城を取り囲んだ。菱刈重豊は蒲生救援のため菱刈陣に入り防備を固めたが、翌弘治三年四月十五日、島津方の総攻撃にあい陥落した。

 範清は、支城が各個撃破され、蒲生城のみでは守り通せぬことを考え、島津方に降伏し、弘治三年(一五五七)四月二十日、島津方に城門の鍵を渡し城に火を放って、祁答院氏を頼り宮之城の松尾城に退去した。その後、範清は入来院氏を頼り、隈之城のうち下青木門を捨扶持としてもらい、下青木門で病死した。隈之城大源寺に葬る。法名金翁宗玉居士。今日墓は見当らない。      文責 松永守道


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