文化五年生、明治十四年一月十九日死
仲太郎の父は蒲生野町名頭(のまちみょうず)厚地仲蔵といい、仲太郎はその長男であった。仲蔵はこうじ屋であったが、家計がとても貧しく、衣食にも困ることがしばしばであった。 仲太郎が十二才の時、父が中風にかかり歩くこともできず、生活はいよいよ苦しくなった。仲太郎は少年ながら、加治木の田中輿済医師に療養を頼み、薬取りも自分で行き、朝晩母と共に父の病床につきそって、よく看病し、父の望む食物は必ず手に入れて食べさせるなど、極めて丁寧に養生につとめた。
父の病気と看護のため、商売も思うようにできず、弟二人はまだ幼く、ために、なけなしの家財を売っては生活するというふうであった。が、そんな中にあってもくじけず、正直に生きぬき、明るく父や家族に接していたが、仲太郎が十八才になった時、父は養生かなわず、六十才で死去した。
仲太郎の姉カネは、生まれつき手足が叶わず、ことばもわかりかねる身障者であったが、父が病中にあった時も、仲太郎はよくこの姉の面倒をみてやった。 父の死後、仲太郎は妻マスをもらったが、マスも仲太郎同様によく母や姉に仕え、姉の食事は箸でとって与え、着物も見苦しくないよう、こざつぱりとさせて、貧しい中にも心豊かな仲太郎夫婦は、町中のほめ者になっていた。この事が島津藩に聞こえ、嘉永三年(一人五〇)三月、仲太郎は御米三石の褒賞を受けた。米は帖佐御蔵から何頭もの馬.の背に負われて、仲太郎の家へ運びこまれた。仲太郎一家の感激、おして知るべしである。
仲太郎は後年仲次郎と改名した。そして明治十四年(一八八一)十月十九日、七十四才でなくなった。墓は耕閑庵墓地にあったが、昭和六年(一九三一)墓地移転の時、納骨堂に合・したので、現存しない。屋敷跡は、蒲生町の町馬場二六九〇番地で、厚地千代子宅の入口である。昭和十年代には、「孝子の家」の標柱も建っていたが、今はこれもなく駐車場となっている。子孫は鹿児島市居住の厚地幸男氏である。 文責 松永守道