文政十一年生、明治十七年七月二十八日死
柊野(くきの)の椨木六左衛門は、椨木門の名頭小助とその妻ハツグイの子として生まれ、心の豊かな人として育った。それというのも、父の小助はその母へ丁寧に孝養を尽くし、島津藩から表彰を受けた(年代不明)ほどの人で、その家風は六左衛門にも幼少の時から感得されていたものと田ひわれる。
六左衝門は祖母や父母によく孝養を尽くし、母が死ぬや墓参も極めてよく行い、かねて名頭として手広くやっている農業にも精を出し、また村中に困窮している者がいると、いつでも自分の家の米や品物、お金などを恵むなど篤行が多く、村中から尊敬されていた。
また六左衝門の妻小ちよは、口之町家から嫁入った人であったが、夫の行状を見、夫同様に祖母、父母に仕え、村人にも親切であった。このことが島津藩に聞こえ、安政四年(一人五七)六月、夫婦ともども御米を三石ずつ、あわせて六石頂載するという栄誉に輝いた。
米は帖佐の藩の蔵から小俵につめ、十数頭の馬の背につけ、美々しい行列のもと、椨木家へ届けられた。後、文久元年(一人六一)六月、藩主島津忠義は、親孝行で表彰された者を鶴丸城中に召して対面したが、六左衝門は城中に召され、小ちよは女のため遠慮して、城中に入らなかった。この時も夫婦ともども、青銅二百足を褒美として与えられている。
同年、藩の国学者柴田花守は、六左衛門と小ちょのために、次の歌を詠じた。
よき人のしるしをおして手にとれば あひ見ぬさへになつかしきかな
くらげなすたたようはじめ天地の 柱にすえし山そ此山
六左衝門は、明治十七年(一八八四)七月二十八日死、法名釈・海、享年五十七。
小ちよは、天保五年(一人三四)生、明治二十七年(一八九四)十二月二十一日死、法名釈尼諾円信女、享年六十一。共に納骨堂に納め、墓碑は現存しない。子孫は棟木真人民である。 文責 松永守道
蒲生人物伝第一集を書くにあたって、参考にした主な資料は次のとおりである。
本藩人物誌、稱名墓誌、蒲生郷土誌、鹿児島県史、原田直哉覚書、蒲生野史、蒲生概略史、薩藩旧伝集、諸家系図口碑、垂水市史、垂水市史資料集(2)、川辺町誌、蒲生地頭仮屋文書、宮之城町誌、示現流聞書喫緊録系図、薩摩の文化。