蒲生上総介舜清(かもうかずさのすけちかきよ)

 生年不明、死去不明

 藤原姓。京都横川から宇佐八幡の留守職(るすしき)として下向(げこう)した、藤原教清(のりきよ)を父とし、同じく宇佐八幡のし大宮司(だいぐうじ)の娘を母として、宇佐で出生。真光房とも称した。                                                        

 平安時代の末、保安元年(一一二〇)下(しも)大隅の垂水に下向し、垂水城を構えた。この城跡は、国道二二〇号線の走る本垂水(もとたるみず)の山手にあり、一名荒崎城ともいう。舜清はここで、国分正人幡の実力者執印行賢(しゅいんぎょうけん)の娘をめとって一男が生まれた。この子が舜清の長子であるが、系図に書かれていない。

 その縁で、保安四年(一一二三)には、執印行賢から蒲生、吉田を譲られ、蒲生に移ったことが、本藩郷里史に見える。舜清は據り所として蒲生城を築いたが、ふだんは下久徳の「蒲生どん屋敷」に住み、姓を蒲生と定め、蒲生家初代となって蒲生、吉田を治めた。

 保安四年二月二十一日には、宇佐八幡の分霊を蒲生に勧請(かんじょう)し、八幡神社を創建した。その別当寺として神宮寺を建て、また菩提寺として授福寺を建立している。没年はわからない。墓は下久徳の平田にあったのではないかといわれるが、今のところ不明である。                 文責 松永守道


量外聖寿和尚(りようがいしょうじゅおしょう)

生年不明、応永二十三年一月六日死
 父は蒲生家十代彦太夫清種、母は桑幡氏の娘で、清種の十一番めの子として、南北朝時代に生まれ、四郎といった。幼にして出家し、量外と名乗り、曹洞宗峨田沢五傑の一人といわれる、丹波永沢寺閉山通幻和尚の弟子となり学問に励んだ。後、島津家の菩提寺福昌寺の関山となった石屋真梁らと共に、通幻門下十智の一人と称された。

 蒲生家十二代清寛は、量外の甥であるが、この学徳すぐれた叔父、量外聖寿和尚を、是非蒲生に帰し、蒲生領内の菩提寺の閉山にしたいと思い、無理に乞うて、蒲生に創建した大定山永輿寺(曹洞宗)の閉山となってもらった。明徳年間(一三九〇〜一三九三)のことである。応永二十三年(一四一六)正月六日示寂。墓は見当らない。文責 松永守道


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