「父のニューギニア戦記」 あとがき(国家の器量)

 作家の司馬遼太郎氏は、大正、昭和約四十年の史観を次のように述べている。

 「日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。とくに大正七年のシベリア出兵からはキツネに酒を飲ませて馬にのせたような国になり、太平洋戦争の敗戦でキツネの幻想は潰えた。」

 「私はポーツマスの町で、一九0五年(明治三十八)の『ポーツマス条約』について考えている。とくにその後の日本を荒々しく変えてしまったことについてである。ロシアからもっとふんだくれるかと思っていた群衆が、意外に取り分の少ない講和条約に激昂して暴動化した。

  『群衆』これも近代の産物である。この群衆は国家的利己主義という多分に観念的なもので大興奮を発した。日本はじまって以来の異質さといっていい。私は、この理不尽で、滑稽で、憎むべき熱気のなかから、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義が、まるまるとした赤ん坊のように誕生したと思っている。

 この熱気は形をかえて教育の場の思想ともなった。つかのまの大正デモクラシーの時代ですら、江戸期のすぐれた思想家たちについては一言も教えられることなく、むしろ南北朝時代の典型的な中世の情念が、楠木正成などの名を借用することで、柔らかい頭にそそぎ込まれた。

 大正期以降、熱気は、右翼と左翼にわかれた。根は一つだった。昭和前期を指導した軍人達は、そういう教育をうけた疑似中世人たちで、おなじ軍人でも、かれらの先人である明治初期の大山巌や児玉源太郎たちからみれば、似もつかぬ古怪な存在になっていた。」

 「自国の歴史をみるとき、狡猾という要素を見るときほどいやなものはない。江戸期から明治末期までの日本の外交的な体質は、いい表現でいえば、謙虚だった。べつの言い方をすれば、相手の強大さや美質に対して、可憐なほどに怯えやすい面もあった。

 謙虚というのはいい。内に自己を知り、自己の中になにがしかのよさを拠りどころをもちつつ、他者のよさや立場を大きく認めるという精神の一表現である。明治期の筋のいいオトナたちのほとんどは、国家を考える上でも、そういう気分をもっていた。このことは、おおざっぱにいえば江戸期からひきつがれた武士気分と無縁ではなかった。

 しかし、怯えというのはよくない。内に恃むものとしてみずからのよさ(文化といってもいい)を自覚せず、自他の関係を力の強弱のみで測ろうとする感覚といっていい、強弱の条件が変われば倨傲になってしまう。

 日露戦争のあと、他国に対する日本人の感覚に変質がみとめられるようになった。在来保有していた怯えが倨傲に変わった。謙虚も影をひそめた。江戸期以来の精神の系譜に属する人々が死んだり、隠遁したりして、教育制度と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた。かれらは、かつて培われたものから切り離された人々で、新日本人とでもいうべき類型に属した。

 官僚であれ軍人であれ、このあたらしい人達は、それぞれのヒエラルヒー(階級)の上層を占めるべく約束されていた。自然、挙措動作、進退、あるいは思慮のすべてが、我が身ひとつの出世ということが軸になっていた。 かれらは、自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対し、狡猾に立ちまわさせるものだと信じていた。とくに軍人がそうだった。

 日本における狡猾さという要素は、すべて大正時代に用意された。国内には大正デモクラシーとか、大正的な大衆社会の現出を見ながら、対外関係においては、後世からみても卑劣としか言い様のない国家行動が、その立案者にすれば、愛国的動機から出ていた。それを支持したり、煽動したりする言論人の場合も、そうだった。

 国家にも、器量がある。器量とは、人格、人柄、品性とかいった諸概念をあつめて、輪郭をぼかしたような何かであるとしたい。」

 その何かの一つとして、敬天舎の先師、杉浦重剛先生は東宮御学問所で皇太子裕仁親王(昭和天皇)に倫理をご講義するにあたり化学者らしく、「倫理御進講」では三種の神器を非神話化し、知仁勇におきかえて説かれたという。
 すなわち、「知仁勇三つの者は天下の達徳なりと『中庸』に記されたるにあり。世に人倫五常(父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信ありの五つ)の道ありとも、三徳(知仁勇)なくんば、これを完全に実行すること能わず。


 言を換うれば、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。知はその道を知り、仁はその道を体し、勇はその道を行うものといえり」と。昭和天皇の帝王学の基礎を築いた根底の一つでもあろう。 

 またいっぽう杉浦重剛先生はその稱好塾で塾生の指導にあたられ次の世代を担う人材を世におくりだされたわけである。それら逸材の一人、岩崎行親先生、岡積勇輔先生などの努力により敬天舎が創設され、西郷南洲翁の思想をくむ同じ系譜の同志がお互い協力し、大戦末期にはキツネの幻想を潰やすことに奔走されるのであった。

 当時の鈴木貫太郎総理を中心に天皇にご聖断を仰ぎ日本を終戦に導く努力された敬天舎の迫水久常先生(当時内閣書記官長)、四元義隆先生(当時鈴木総理秘書)、総理の身辺警護に挺身された北原勝男先生はじめ先輩諸氏の活躍は母からよくきくところであり、また同人の皆様方が最もよくご存じのところである。

 それから戦後四十数年、国民の努力により国力は復興し平和な国になっている。先進諸国で近年戦争を体験していないのは日本とドイツぐらいではなかろうか。私はいわゆる団塊の世代である。もしこのまま戦争を体験しないで一生をおくることができたとしたら、近世の歴史のなかでは希なことなのであろう。私たちは父らが経験したような戦争は二度と起こさないような努力をしなければならない。

 しかしながら私たちを取り巻く世界の情勢は東西関係をはじめ経済環境も急変している。健全なる経済行為をしているとおもいつつも、周囲では貿易摩擦がいたるところで起きている。本来の経済行為は、地球規模でより豊かで幸せな社会をきづくための競争と協調であろう。その貢献度を計る物差しの一つが企業でいえば副産物としての利益であり、政府レベルでは各国からの尊敬と評価でもあろう。

 こんにち日本経済は好景気を呈しているがこれも、実力的にはお釈迦様の手の上の孫吾空みたいなものではなかろうか、残念なことに我が日本は「経済は一流、政治は三流」と諸外国からいわれ、さらに近隣諸国にすら真の友人もつくれていない。

一方、現在の産業界を戦略的見方でとらえるとすると軍(通常は三個師団)、師団(一個師団は約一万五千)規模の企業から中小規模の企業まである。軍には軍参謀、師団には師団参謀がいるごとく企業にもそれなりの部署がある。さしずめ現代の大本営は関係省庁および政府で、現在の大本営参謀は官僚をはじめ政府高官といったところか。

 現代の大本営は米国の政治・経済戦略にも対応できず、おまけに政治の貧困さまでさらけ出している。これら大本営の戦略の未熟さを各分野のそれぞれが戦術、戦闘でカバーしているのが現状ではなかろうか。見方をかえれば戦前の日本の様相とそう大差はないようにも思える。見識ある企業経営者も、とくに諸外国との貿易においては囚人のジレンマに陥りつつある。わが国は以前より内部に抱えた矛盾は自身でかえられず外圧によってかえさせられてきた。今は日本の将来を方向づけるためにも重要な時期ではなかろうか。

 後世の歴史家が、「日本は経済を中心に企業と企業戦士が前線で勇猛果敢に活躍したが国家レベルにおける戦略的グランドデザインがなく、大日本経済大国は文化的偉業もないまま衰退し二十一世紀には終焉を迎えたのであった。」といわれないよう、気をつけねばなるまい。
 
 司馬氏も述べておられるように国家には国家レベルの器量が必要であり、企業には企業レベル、国民一人一人には個人の器量が重要であろう。器量は人徳であり、その人の培った世界観、歴史観、使命観、人生観、道徳観などが醸し出すものではなかろうか。この人徳の積み重ねが自然と国家の器量となっていくのであろう。

 最後まで、「父のニューギニア戦記」にお付き合いいただきありがとうございました。冒頭にも述べましたがこの戦記は父の大隊の戦闘記録のほんの一部を「最前線指揮官の作戦の教訓」という観点で把えた限られた範囲の戦闘記録です。                  

 完

  平成二年三月二十一日


主な参考文献と資料

「四一会会誌」各号

防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書南太平洋陸軍作戦 (五)」

「水戸歩兵第二聨隊史」

「第四十一師団ニューギニア作戦史」

堀栄三郎「大本営参謀の情報戦記」情報なき国家の悲劇  文芸春秋、一九八九年、[堀氏より著作権の使用権許諾を得て内容の一部を転載した。]

戸部良一他「失敗の本質」ダイヤモンド社、一九八三年

土門周平「日本陸軍の名リーダー『地獄』を戦い抜いた 『非情』と『無私』の陣頭指揮

、『闘将』安達二十三とニューギニア戦線」プレジデント、昭和六〇年  十二月号

「戦う天皇」講談社、一九八九年

小松茂朗「安達二十三」光人社、一九八八年

角田房子「責任ラバウルの将軍今村均」新潮社、一九八四年

星野一雄「ニューギニア戦追悼記」戦誌刊行会、一九八二年

山田佐「鳴呼・ニューギニア戦」旺史社、一九八五年

山本七平「昭和天皇の研究」祥伝社、一九八九年

小島直記「志に生きた先師たち」新潮社、一九八五年

司馬遼太郎「アメリカ素描」読売新聞社、一九八六年

       「ロシアについて」文芸春秋、一九八六年


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