「蒲生の里にはサムライ会社というのがあるそうですな」
という。むろん武器は刀か槍、もしくは火縄銃、あるいはせいぜい戌辰戦争当時の元込銃(もとごめじゅう)であろう。 「周囲二里三町余、四方は削(そ)ぎ立つごとき断崖にて、一夫(いっぷ)これに依(よ)れば十万の兵も攻めがたし」といわれた天瞼で、米軍もよほどおどろいたらしい。かれらがこの巷説を本気で信じた証拠に夜襲部隊を編成し、夜のうちに行動して蒲生郷を三方から包囲したことでも察しられる。
米軍は要所要所に機関銃や迫撃砲を据え、夜あけとともに決死隊(?)がジープに乗って町長宅へ踏みこみ、寝ぼけている町長をたたきおこして鹿児島市へ連行した。
米軍指揮官は、 と、いった。町長はそのとおりだ、と答えた。
「にもかかわらず薩摩の蒲生郷だけはそれを温存したといわれているが、本当か」
山林がぜんたいの七〇パーセントを占め、畑が三百町歩、水田はわずか百十町九反半にすぎなかったため、蒲生士族は紙すきなどをして自活せぎるをえず、薩摩藩の郷士団のなかではやや貧窮な部類に属していた。貧窮だったからこそ明治の廃藩置県という士族瓦解のとき、うまく生きのびる智恵が湧いたのかもしれない。 | |||||||||||
―― 蒲生衆のために藩有林や藩有の牧場を払いさげて下さい。
と旧藩に請願し、意外にも許可された。まったく意外というほかない処置で、こういう事例は薩摩藩の他の地域にもなく、むろん全国的にも士族の特権が経済的に保護された例など皆無であった。なぜうまく行ったかについてはいくつか理由が考えられる。蒲生衆が政治的な立ちまわりがうまかったということではなかった。むしろ逆だった。この衆は藩内でも醇朴(じゅんぼく)で知られ、たとえば有名な関ケ原の退却戦でも最後まで踏みとどまるなど、どの戦場でも損な役まわりをひきうけてきた。
―― 蒲生衆のいうことならきいてやれ。
「蒲生士族共有社」
かれらは「共有社」の土地に植林をし、牧畜をした。その果実は社員に平等に配分された。その金のおかげで蒲生旧士族の子弟は鹿児島市の旧制中学に行ったり、東京の大学へゆくことができ、このためこの貧窮な町が、明治初年から上級教育への就学率が高かった。 「明治六年、長谷場弥七に金三百円をあたえて東京へ留学せしめたのが、蒲生出身の最初の書生である」と、町役場の正史である『蒲生郷土誌』に書かれている。当時の三百円というのは大金で、相当な邸宅が買える金であった。もっとも長谷場弥七は学問に不熱心だったのか、「不幸、不成功にて十一年帰郷した」とあまりかんばしくない記述が正史に書かれている。しかしともかくも書生を出したということが蒲生郷にとって一大事件であり、長谷場弥七なる人物はそのために永遠に村史に名をとどめることになった。
――なにや知らんが、変にユーモラスな村ですよ。 と、作家海音寺潮五郎氏がしばしば蒲生について語られるが、この名誉の書生第一号の記述にもその気分が漂っている。「不幸、不成功にて」という具体的な内容については、よくわからない。しかし一郷のひとびとはいまでも語りつたえているのにちがいない。 元来が、あまり人を押しわけて立身出世しょうというような気分の稀薄な土地で、「共有社」の財力(?)があったわりには天下知名の士は出ていない。 「数学の名人がおりましてなぁ」 と、私どもが蒲生町に入ったとき、案内してくださった土地の有力者が、この郷土が輩出した最大の人物について語った。瀬之口覚四郎という人物で、かれも共有社の資金のおかげで東京に出ることができた。『蒲生郷土誌』には「頭脳晰」ととくに書かれている。瀬之口は海軍兵学校に入り、海軍部内では砲術の大家とされていたが、大尉で終ってしまった。軍艦の砲術長をつとめていたときに戦死したからだが、ただし時代はよほど古い。日清戦争のときである。 |