比志島美濃守国守(ひしじまみののかみくにもり)

生年不明、死去不明
 父は郡山領主比志島美濃守義住で、天文二十二年(一五五三)十一月一日郡山で戦死。

 国守は初め義貞、通杯彦三郎、源左衝門尉と称したが、比志島民本家が河内守義貞と名乗ったので、支流の彼は、義貞を国守に改めた。入道して玄心という。

 天文弘治の蒲生合戦に、島津軍の部将として度々軍功があり、蒲生落城後、弘治三年(一五五七)十月、蒲生の地頭を命ぜられ、蒲生迫村の地頭仮屋に移った。この時、同時に移ってきた地頭に、北村に弟の比志島宮内少輔国真があり、松坂へ市来内蔵助、帖佐へ鎌田刑部左衝門尉政年、山田へ梅北宮内左衛門尉国兼がいた。

 島津国史、蒲生郷土誌等、比志島美濃守国真として、兄弟の名を混同して、誤りを犯している。国守は前記のように、迫村の長谷観音の西に造った地頭仮屋に入った。蒲生氏時代から当時まで、武士たちの屋敷は、追の三の丸から下久徳にかけてが主であった。現在の麓から町は、まだ低湿の地で、わずかに畑がある程度で、人家はほとんど無かった。

 国守は蒲生地頭として、蒲生合戦後人心の安定と治安に勤め、新しく加世田や川辺その他から、蒲生衆中として移されてきた、麓八十人戸漆五十戸の武士たちを統御して、永禄年中の菱刈合戦にも出軍し、武功があった。

 その功を質せられて、永禄十年(一五六七)大村地頭に転じた。(祁答院町史は、この時の施頭を比志島国貞としているがここでは本藩人物誌に従い国守とする。)後、肝付氏の反乱の時、向島(桜島)の瀬戸の在番を勤め、肝付氏降伏後、大崎地頭として大崎に移り、同地で死んだ。法名知雄玄心。享年及び墓は不明。文責 松永守道


鬼塚三蔵(おにづかさんぞう)

生年不明、慶長十年九月八日死

 漆の鬼塚家の祖三蔵は、島津久保に仕えていた。久保は島津十七代太守義弘の嫡子で、やがて義弘の跡をついで十人代太守になるべき武将であった。三蔵は、文禄の役に久保に従い、朝鮮に出軍した。文禄二年(一五九三)九月八日、久保が唐島の陣中で急病により、二十一才の若さで亡くなった。
久保をねたんだ者が、毒殺したとの風評も立ったのである。久保なき後は、三蔵は久保の弟家久の手について、油川の大赦戦にも参加したが、無事帝国することができた。
 久保がなくなってから十三年忌の慶長十年(一六〇六)に、三蔵は毎晩たてつ、づけに、久保が向うから手まねきしている夢をみた。不思議なこと


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