木上和泉守惟商(きのうえいずみのかみこれただ)

生年不明、死去年不明十月二十四日
 父を木上新五郎といい、母の名は不明である。祖父は筑前守長寿といい、弓術師範小笠原民部大輔光清の弟子で、大永元年(一五二一)から同三年までに皆伝を許された。新五郎は長秀から相伝し、また小笠原刑部大輔晴長から再度皆伝された。木上家は豊後の大友氏の一族といわれ、代々大友家に仕えた家柄であった。
 和泉守は、初め掃部介といい、入道してからは又泉と号した。父新五郎から小笠原流射礼、大迫物、笠掛、流鏑馬等の式を伝受したが、文禄年間(一五九二⊥大友氏が朝鮮の役に敗れて、豊臣奔書から除封された時、浪人となり、薩摩の新納忠元を頼って大口に移ってきた。このころ島津家久は、小笠原家へ弓術の稽古をしたい旨を申し送っていたが、小笠原家から、「島津御領地に漂泊している木上掃部という者は、当流を皆伝した士であるから、この者を召出されて御稽古されてはどうでしょうか」との返書に大喜びし、さっそく木上を大口から蒲生に移らせた。

 家久は当時加治木の館に居たので、折々木上を蒲生から加治木に召出して弓の師範とし、練習に勅んだ。やがて家久は、加治木から鹿児島の内城に移り、慶長七年(一六〇二)には鶴丸城に移ったので、木上を鹿児島に召出し城下士となし、知行屋敷を与えて藩の弓術師範とした。和泉守が老年になった時、家久は御前に召出し、和泉守に又泉と入道名を与え、頭を剃らせ頭巾と衣を与えている。

 谷山で東郷重尚が束矢を行った時、まだ掃部といっていた和泉守が詠じた歌 梓弓いる人みれば千早振神の心にかはらさらまし和泉守の死去年は不明だが、十月二十四日を命日とする。享年九十三才。法名浄庵涼円居士、墓は蒲生町上ノ原墓地にあり、子孫は木上凡士である。  文責 松永守道


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