赤塚源太左衝門真賢(あかつかげんたざえもんさねかた)

天文十一年五月五日生、寛永十年八月十四日死
 父は赤塚源太左衛門尉重徳、母は滴尾掃部兵衛尉貞利の娘。実賢は加世田に誕生し、初め真重、後、真賢に改めた。通杯太郎二郎、後、源太左衝門、入道して休意斎と号した。

 弘治二年(一五五六)からの蒲生合戦に、十五才にして島津貴久の部下として従軍、弘治三年四月十五日、十六才の時、菱刈陣攻めに初めて敵の首を取る。永禄四年(一五六一)廻城合戦従軍、戦功により槍をもらう。永禄七年(一五六四)島津義弘に従い、飯野へ移る。 天正四年(一五七六)小林の地頭代と足軽大将を命ぜられ、三ノ山城(小林城)に移り、以後二十年守備をする。
 天正六年、伊東方の東霧島(つききりしま)権現宮座主、民部卿秀澄僧都を殺す。島津義弘の部将として、肥後、日向、豊後各地の合戦に従軍し、武功が多かった。天正年中、島津義弘の御軍談合衆五十四人の内に加わる。文禄四年(一五九五)義弘の命により、蒲生城守備のために移され、蒲生城内の赤塚屋敷に居る。
 慶長五年(一六〇〇)関ケ原合戦の時には、義弘の奥方の御供をして京都に居たので、奥方を救出し、義弘の帰国の船に同乗することができた。戦後、東軍が島津征伐に攻めてくるとの風間があり、義弘は堅固な蒲生城でこれを迎え討とうと考え、慶長五年の冬から同六年の夏にかけて、赤塚等に命じ、蒲生城に新城(荒平陣)を御取添地として構築させ、守備の武士として、諸所から七百余人を移した。真賢は以後、同十五年まで新城御番として勤めたので、五十石の加増を受けた。
 慶長十五年(一六一〇)徳川家康の命により、蒲生城も城郭・門・矢倉・石垣等を解き崩したので、城内に居た諸士は下の三の丸のほうに降りた。真賢はこの時、横尾口の下之城に移された。 真賢は弘治二年から天正十五年まで四十四年間、終始島津義弘の供をし、足軽大将となってからは、常に五十人から百人の部下を率いて敵をたおした。その間、身に受けた傷は十一か所、討取った敵のかぶと首は二十六人に及んだ。

 彼の軍功を誌して藩に提出した、赤塚源太左衛門上申状の写しは、県立図書館にある。

 寛永十年(一六三三)八月十四日、九二才で病死した。法名禾覚賢重居士。墓は北村の永奔庵墓地にある。子孫は姶良町の赤塚公宏氏や蒲生町の赤塚武二氏等である。                 文責 松永守道


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