大平は田中より利口
田原 佐藤さんの後継総裁の田中角栄さんですが、たいへん力のあった政治家だと思いますが、四元さんはだめだそうですね。
四元 彼も私心の塊だからね。
田原 会ったことはありますか。
四元 まだ彼が土建屋出身の代議士だったころ、橋本龍伍(自民党衆歳院議、橋本龍太郎の父)が自分の弟分のようなことを言って紹介してきた。
田原 どんな印象でした?
四元 何もないな。少なくとも魅力は感じなかった。あるとき鹿児島で若い経済人たちと議論したことがあったんだが、僕が「あんな奴はすぐ刑務所行きだ」と言ったんです。2〜3年たって、僕の言うとおりになった〔笑〕。
こんなことがあったょ。田中が三十代で郵政大臣になったころ、吉田さんが僕に「だれか、若い、いい代議士がいないか。田中角栄なんてちょっといいんじゃないか」と言うから、僕は「自分のことしか考えない、ろくでもない奴です」と言い切った。それから吉田さんは二度と田中の話を僕の前でしなくなった。その年の暮れ、僕のところへんな鮭が送られてきた。開けてみたら、田中が吉田さんさんに送った鮭が転送されてきたんだ。「吉田さんも田中を卒業したかな」と大笑いした。以後、吉田さんは田中のことをぜんぜん口にしなかった。まあ、ああいう太っ腹な人だから、持ってきてくれた金は平気で使ったかもしれない。
田中という総理を作った責任は佐藤栄作にあると思うけれども、岸の跡目を継いだ福田赳夫がしっかりしていたら、田中は出られなかったでしょうね。佐藤内閣の末期に、僕は「後継はどうするつもりだ」と聞いたことがある。すると佐藤は「福田」と答えた。昭和四十六年に福田を外務大臣にしたのも、彼を総理にする用意なんだ、と。そのくらい佐藤は一生懸命、福田を後継にしょぅとした。
福田が凡才じゃなかったら、必ず総即になれたほずです。福田は総裁選で田中に負けた後、「毎日新聞」に「敗軍の将、兵を語る」という連載を書いた。
それを読んで、僕ほ福田と会って「あなたは、田中に負けたのは中曽根が自分の陣常に来なかったからとか、佐藤栄作がもう少しがんばってくれたら、と書いているが要するに福田赳夫がだめだから負けたんじゃないか。それ以外には何もない。それがわからなけれは、政治家として成り立たない」と言った。福田は頭を下げて、上げられない様子だったね。完全無欠な人間はいない。
だが、自分の弱さがわからないような奴には、本当の強さもわからない。何もないくせに自惚れだけが強い。だから人のせいにする。
ともかく、佐藤は田中を後継にとは夢にも考えていなかった。そのことをいちばん知っていたのも田中だった。
佐藤栄作は後継首班に大蔵官僚出身の福田赳夫を望んだが、田中は、昭和四十七年の総裁選で、候補となっていた大平正芳、三木武夫との連合を組み「角福戦争」と呼はれた激しい選挙に勝利した。それでも、だれも福田が負けるとは思わなかった。僕も福田総理実現のため一生懸命やった。
で、結局負けた。大平正芳とかが、田中を担いだりしたからでもあるんだ。
大平も、田中と同種類の男ですが、利口ではあった。大平と話したことがあったんですが、中国は「井戸を掘った人のことは忘れない」なんて言って、田中が日中友好の大恩人だとされていた。ところが真相を大平に聞くと、そうじゃないんだ。田中角栄は、途中で脅迫状などが来たりして、怖くなって「もうやめょうか」と言い出した。それを大平が「どんなことをしても日中国交回復はやらねはならん。これで命を捨てようや」と言ったんだそうだ。