八月十五日 

北原勝雄

大東亜戦争(太平洋戦争) 敗戦前夜 天皇陛下 聖断前夜の敬天舎同人の活動
山下憲男 転載

 「迫水さん、今夜陸軍が蜂起しますよ」首相官邸書記官長室で、ばったり出会った迫水久常内閣書記官長に私は言った。閣議の終るのを待って鈴木貫太郎首相と一緒に私が文京区丸山町の首相私邸に帰ろうとした際である。すでに十五日午前零時を過ぎていた。終戦の閣議に参加し、詔勅、玉音放送などの段取りをつけ憔悴しきった迫水さんは、一瞬ぎょっとした。

 「そうか、ひとりでは心もとない。首相と帰らずここに泊ってくれないか」「泊まりましょう、そのかわり明朝四時丸山の私邸まで車を出してくれますか」「わかった、必らず手配する」この約束のもとに、そのまま私は官邸にとどまった。私がなぜ官邸に詰めていたのか、その事情を述べておく必要があろうが、その前に緒方竹虎先生を襲った刺客事件にまで遡ってふれなければならない。

 ◇ 緒方団長刺客事件

 刺客事件とは大日本翼賛壮年団の緒方竹虎団長が韓国人刺客に襲われ危うく難を逃れた事件である。

 昭和20年2月24日翼賛会の会場で翼壮全国団長会議が開かれた。私は大東亜錬成院錬成宮であったが三上卓組織部長の要請で参列していた。翼壮をめぐる種々の経緯は省くが、翼賛会、翼賛政治会、翼壮等がそれぞれ他を吸収して翼壮を牛耳ろうとする動きがあった。

 当然緒方団長に対する支持不支持の府県もあり、当日の会議でも東京府翼壮の橋本欽五郎一派がなにか仕掛けるとの予想から、私も出席の要請を受けていたのである。会場の席は長方形に作られ、机を距てて私はちょうど緒方団長と向きあう位置に坐っていた。

 緒方団長が挨拶を述べ、館林三喜男本部長から三上組織部長の発言に移った時、何者ともわからぬ青年が緒方団長に近づき、二言三言いったかと思ったら団長に向って体当りしてきた。とっさに刺客だと気付いた私は机を乗り越え団長席の方に飛び出し、暴漢に飛びついて取り抑えた。と同時に憲兵や警官が折り重なって暴漢を捕え場外に引きずり出した。

倒れた緒方団長は直ぐ起きあがって椅子に戻り、声の調子ひとつ変えず「会議を続けます」と言われ、三上部長の話を続けるよう促し、会議は何事も起らなかったかのように進行した。 これが刺客事件の一幕であるが、この間ほとんど数分の出来事であった。(注1)


(注1)緒方団長刺客事件については、高宮太平著「人間緒方竹虎」四季社、昭和三十三年刊(二二七〜九ページ)でもふれている。それによれば、暴漢は帝都翼壮団員赤誠会員で、日本名を豊渕、某という韓国人と判明した、となっている。


  ◇首相官邸に詰める

 この事件の翌三月、私は大東亜錬成院を辞め翼壮に入り組織副部長として三上さんを補佐することになった。四月五日に小磯内閣が総辞職し、七日には鈴木貫太郎海軍大将を首班とする鈴木内閣が成立した。同月十三日には国民義勇隊編成の決定があり、それに伴い大政翼賛会、翼壮、大日本青少年団等が解散することになった。

 私は五月末に内閣の嘱託として国民義勇隊創設関与、その中核を内務省に置くか軍の指導下に置くかで毎日迫水内閣書記官長のもとで、軍指導下を主張する軍務局員畑中少佐等と激しく議論をしていた。

 この争点は、解決をみないまま七月五日の閣議でも論議の中心となり、阿部源基内務大臣が辞めると言い出し鈴木首相が説得してやっとおさまるという場面もあったと聞いた。

 ともあれすでに五月七日にドイツが無条件降伏し、イタリアはそれ以前に降伏していたので、連合軍の攻撃は日本だけに集中し、戦局は破局に向って推移していたのてある。

 七月十八日には、近衛訪ソ使節の派遣がソ連側の拒否にあい失敗、和平終戦のことがお上の裁断を仰ぐ事態となったことを知るが、こうした激動する局面の中で国民義勇隊の問題は幻の義勇隊として消えていった。

それはともかく、以上の経過から私は内閣嘱託の身分のまま、当時鈴木首相の秘書役であった四元義隆さんの意向に従い、八月に入って学生四名(石井醇一郎、所賀尚雄、長松幹栄、岩崎昭太の諸君)を率いて首相官邸に詰め、首相の身辺を警護することとなったのである。(注2)


(注2)当時警察も還兵も信頼できない状況だったので、私どもが首相の身辺を警護することとなったのである。

石井醇一郎君=石井一作先生の長男、翼仕組織部々員。現在、厚木市相談役

所賀 尚雄君=千葉大学医学部学生、昭和四十四年八月二十九日死去

長松 幹栄君=県亜同盟高峰道場(道場長、四元義正先生)道場生、現在函館高校教頭

岩崎 昭太君=中学四年生、大鶴寮々生、現在明電舎社員


◇首相官邸から私邸へ

 さて、話を本筋へ戻そう。

 迫水さんとの約束どおり官邸に泊ったが、寝たのは一時を過ぎていた。当夜官邸には私のほか石井、所賀の両君がいた。不思議と四時にばっと目がさめた。

すぐさま、首相私邸に向かおうとし二人を連れ先夜約束の自動車を探した。運転手を呼んでも応答がなく、車の処在もわからないので、警視庁で車を借りようと思った。

 官邸の裏門を抜けたところで、議事堂の方から匍匐前進(ほふくぜんしん)くる佐々木大尉(のちに大山量士と称し亜細亜友の会を主宰)の率いる襲撃隊と出会った。兵にまじって学生姿がみられる。佐々木大尉が横浜工専出身であったから恐らく同校の学生達が加わっていたのであろう。

 「よそ見をせずまっすぐ歩いてついて来い」私は声を抑えて二人に指示した。互いの距離は段々近づく。しかし、首相官邸の方向にすべての神経を集中していた一隊は、私達に気付かなかった。すれ違って間もなく、彼等は機関銃で官邸を掃射しはじめた。そのすさまじい銃声を背に警視庁に飛び込んだ。

「俺は内閣のものだ、藤田(二郎)課長はいるか」

怒鳴るように尋ねた。飛び出してきた警部に「官邸が襲撃された、車を出してくれ」と頼む。

警視庁の対応は素早やかった。直らにオープンカーそれもガソリン車を用意してくれた。

 「鈴木首相の私邸へ」

 幸いなことに運転手が首相私邸を知っていて私達三人を乗せ直らに走り出した。ところがいくらも経たない時である。

「止まれ!」前方に剣付鉄砲の兵士が立らはだかった。

二重橋前である。 

「内閣のものだ、通せ」私は強引に突破を試みた。

 「通さぬ」銃先を車に突き入れてきた。兵士達の眼は充血し将校もピストルを構えて飛んでくる。

 「右へ廻れ!」大きな私の声にひるんだ将校が兵を制し道をあけさせた。間髪を入れず車は発進し、一路私邸へと走った。あとからわかったことだが、私達を二重橋前で制止した兵士達こそ近衛師団叛乱部隊であった。(注3)


(注3)終戦に反対し徹底抗戦を主張した近衛師団所属の叛乱軍は、森近衛第一師団長を射殺し同師団の実権を握ったが、田中東部軍司令官の統卒によって叛乱は治まった。叛乱部隊の中心にいた畑中少佐等は二重橋前で自決した。


◇首相私邸から脱出
 首相私邸に近づいた時、官邸を襲撃した佐々木一隊がトラック二台に分乗して、私達の前方を走っているではないか。

 「先生っ、さっきの連中がいます」所貿君が声を殺して合図した。

 「右へ」と指示、私達は別の近道を通り全速力で襲撃隊よりひと足先に私邸に看いた。あたりはまだ薄暗かったが官邸を出てから小一時間ほど経っていたと思う。 

車から飛びおり土足のまま玄関から奥へと走った。総理が上衣のボタンをかけながら小走りに出てこられるのに出会った。うしろに夫人、長男の一さん(当時首相秘書宮)が続く。

 「総理こちらです」首相の腕を抱えるようにして玄関を出て門の方へ走った。

 私邸の門は電事が走る大通りに対し斜めに構えた造りであった。しかも首相専用車が電車通りでなく、そこから私邸の門前を駒込方向に対し左折した小路に入って駐車していたことが幸いした。そのため、私達が乗りつけたオープンカーのすぐ数十メートルほどの後方には佐々木大尉一隊の車が接近していたにもかかわらず、総理と私どもが正門を出てすぐ左折し、その小路に止めてあった首相専用車に乗り込む姿が襲撃隊の視野に入らなかったのである。

 首相専用車は小路を右へ右へと曲がり、大通りに出て東大正門前の首相親戚の邸へと脱出した。この時のきわどいすれ違いの状況を鈴木一さんは次のように記している。(注4)


(注4)鈴木一「総理私邸の炎上」オール読物、文芸春秋社刊、昭和四十年十月号(104ページ)


『…同車したものは、父総理と母と秘書宮の私に、同じく秘書宮であった従兄の武君(首相実弟鈴木孝夫陸軍大将の子息=北原注)と唐沢運転手の隣りには警衛の警視庁の坪井さん、それに急を聞いて駈けつけた北原さんの七名であった。総理の自動車は電車通りから小路に入ったまま駐車してあったのであるが、いざ乗ってみると中々エンジンがかからない。戦争末期でよいガソリンがないための当然の現象であるが、そこ迄襲撃部隊が来ていると思うと、気が気でない。警備の警察官十人程で単の後押しをやってくれたが、後刻色々計算してみると、実はこの頃、兵隊と学生を乗せた佐々木大尉の率いるトラック二台は、既に電車通りを走ってきていたらしい。

 一隊は、小さい総理私邸の前を通り越して、坂上の千葉三郎氏の大さな邸宅を目指して進み、ここで尋ねて逆もどりしたのであった。その頃総理の自動車は、同じ電車通りを反対方向に、一目散に本郷西片町の叔母の家にと走っていたのである。まことに運命のすれ違いというか、危機一髪の瞬間であった…』

 親戚の邸に着いてから鈴木一さんが丸山町の私邸に電話を入れた。ところが電話口に襲撃隊の兵士が出て「鈴木はどこにいるか」と怒鳴るので一言もしゃべらず電話を切っている。そのあと、彼等は私邸に火を放った。一種の焙り出し作戦をとったのであろうが、すでに首相は脱出したあとだった。

 そうした情勢から、ここ西片町も危険だと判断、こんどは芝にある朝香宮邸の横の邸に鈴木孝夫大将が寄宮しておられたのでそこへ 一行は移動した。ところが、この邸の玄関に飛び込んだ私の目の前に姿を見せたのが、なんと小田村寅次郎君ではないか。(注5)


(注5)小田村憲次郎君は現在「国民同胞」を主宰。吉田松陰の姉の嫁ぎ先の出である。河合栄次郎を東大から追い出したが、自らも田所君と共に東条英機に東大を追われていた。


これには驚いた。機先を制して声をかけた。

 「君は戦争終結に反対か」

 「いや、戦争終結は己むをえないと思う」

 そうしたやりとりのあと無事に一行は邸に入り、午前十一時過ぎまでここにいた。その後内閣と連絡がつき、襲撃隊及び近衛師団の叛乱が鎮まったとの報せを聞き、首相官邸に総理ともども入ったのは確か十一時三十分頃であった。首相私邸から脱出して以来およそ六時間半というもの、全く内閣と連絡がとれなかったのである。

 ところで、石井・所賀の両君は、首相私邸で私がオープンカーを降り首相一行と脱出した時、そのあとを追ったようであるが燃料が切れ、己むなく駒込駅前で車を捨て直ちに吉祥寺に戻り四元義降さんに脱出成功を報告している。その後当臼の炎天下、松岡・石井の二人は私達を探して都内の心当りを終日尋ね廻ったようだが、恐らく、首相脱出後の経路は誰もが予想できなかったところであろう。


脱出成功の安堵感も手伝ってか、私は官邸に着いてからは大広間でぐっすり眠り込んでしまった。そのため、正午の玉言放送など全然知らずに過ごしたのである。死を覚悟していた私であったが、めまぐるしい動きのあとに訪れたものは意外にも深い眠りであった。

十五日以降の模様をかいつまんでいえは次のとおりである。

 もともと鈴木首相は首相就任後も官邸でなく私邸に寝泊まりしておられたが、私邸が焼かれたこともあって、官邸ではなく朝香宮邸の隣りの邸で二〜三日過ごされた。そのあと、目黒の中根町の近くに転居された。

 一方内閣の動きであるが、八月十五日にはすでに鈴木首相は辞表を提出、内閣は総辞職し、一日おいた十七日には東久邇宮内閣が成立、全軍に戦争停止命令が布告される慌しさであった。

 鈴木首相自決のおそれありということで、それを監視する意味もあって、私もその後二〜三日間身辺近く寝起きしていた。しかし、その心配がなくなったのを見届けて小平の大鵬宰へ引き揚げたのは二十日過ぎではなかったかと思う。

 緒方先生が東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣嘱託として官邸に詰めることになったが、本題とは直接かかわりがないので割愛させて頂く。


◇ お わ り に

 以上想い出すままに記したものの、もともと八月十五日前後のことについて発表する意志はなかった。しかし、今回は敬天舎同人わけても若い同人諸君が色々聞くので、当時から三十七年も経過していることもあり、記憶がなくならないうらに書き残しておくことも私の務めではないかと考え直した。

 当時「日本のバドリオ鈴木を倒せ」とは陸軍を中心とする大勢であった。神州不滅を信じ、一億玉砕を国家指導原理として戦ってきた国民感情からすれば、無理もないところでもあった。

バドリオとは、国王と共謀しムッソリーニを首相の地位から追放し監禁すると共に、自ら首相としてファンスト党を解散し、ひそかに連合軍と和平交渉を始め、イタリアを無条件降伏に導いた男である。

 私が八月はじめ、四人の学生を率いて首相官邸に入る時、首相と共に陸軍に必殺されるであろうことを覚悟し、人知れず子供宛に遺書を認めたのも以上の理由からであった。それ故に、あの時私と行動を共にすることを切望された畏友、幡掛正浩兄との別れに際し、死ぬのは一人、一人にしよう。幡さんはつらいだろうが、今しばらく生き残って日本の将来や私事ながら家族のことを頼む、とも言ったのである。(注6)


(注6)幡掛兄との交遊は遠く京大在学中にまで遡る。詳細は幡掛正浩著「花相似たるもの」兄弟文庫、昭和四十二年刊「序」”緒方竹虎先生の逸話“私の大岸頼好””かなしきいのち””大魂・石井一作先生”の各章に記されている。


とはいえ、私自身が「戦争終結己むなし」と決断を自分に対して下していなければ、恐らく敢えて鈴木首相救出に生命を賭けることはしなかったであろうり そして、その決断は払自身の内部ではそれなりの必然性をもっていた。それは、京都大学を卒え、国民高等学校、満蒙拓殖幹部訓練所、建国大学、海南島での体験を含め大陸各地での見聞を通して、軍部主導の大陸進出、東亜経綸の動きにはとてもひとくらでは言いきれない不信感を抱いていたからである。

 それだけに、なにかを契機に今までのやり方を改め、日本は新しく出直すべきだとの心境にあった。従って、和平終戦は堪え難い屈辱とはいえ、これを日本民族の再出発のための「禊」(みそぎ)と受けとめるべきではないかと覚悟できた。だから和平終戦の決断は決して唐突で飛躍した結論ではなかったのである。

 単なる軍事的な敗北としてでなく、「禊」として戦争終結を受けとめることは、逆に積極的に民族の再生を願う道につながるのではないか、三十七年を経た今日でも私はこれだけのことしか言えない。

 これから先のことは、同人諸賢はじめ国民一人々々がそれぞれの考えや立場から八月十五日を受けとめ、今後の日本の歴史の流れを正しいと信じる方向へもっていくことではないだろうか。


 なお、この稿をはじめるにあたり、四元義経先輩はじめ幡掛正浩、松岡健一、石井醇一郎の諸兄にひとかたならぬご協力を頂いた。また私の口述をまとめるに際し、昨年の敬天舎同人誌創刊の辞もそうであったが、今回もまた、三浦正昭君のお世話になった。併せて茲にあらためて深く感謝の意を表す次第である。
(昭和四十七年四月)


参考文献として次の二点を加えたい。
鈴木 一編「鈴木貫太郎自伝」時事通信社、昭和四十三年刊(275ページ)
五味川純平著「戦争と人間7」三一書房、昭和四十一年刊(295〜7ページ)


北原勝雄氏は昭和63年1月8日。膵臓癌のため逝去されました。
ご冥福をお祈りいたします。
敬天舎同人誌第二号より転載               山下憲男


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