本司 猛二郎(ほんじ もうじろう)

   嘉永二年生   明治10年4月3日死

 上久徳二四〇四番地本司源左衛門の長男として生まれる。

 元治元年、十六歳にして京都諸所の守衛にあたり、禁門の変の戦闘に従軍、慶応元年帰郷した。

十九歳の時、長崎、天草、豊後方面へ出兵、慶応四年の戊辰の役には六番隊小頭として従軍、庄内、新庄、酒田等に転戦した。

 明治五年蒲生郷の副戸長に任命される。

 明治十年の役には、当初から反対の能心度を拝していた。
 しかしながら、以下蒲生郷土誌によると「本司猛二郎は、帰郷中の警視庁四等巡査松下兼清を訪い、東京の事情を探り談深更に及びたるを以て、嫌疑を受け耕閑庵酒店の標柱に縛せられて、両肩を強打拷問され一時気絶した。
 後、鹿児島に送致され、桐野利秋から西郷隆盛の出軍を開いて出革を約した。而して発するに臨んで、郷里において恥辱を受けた以上、武士として再び郷里の土は踏まないと遺言した。後、鹿児島隊を率いて球磨川の戦に死所を求め、戦友の制止も開かず、台場の上に躍り上り、ついに敵弾を浴びて敏死れた」と。

 若くして学問、武術にすぐれ、体格も大きく腕力も強く角カ力士でもあり、勤皇の志士であり、郷土を集めては、学問を教え武芸を練り、庭には土俵をつくり角力にて身体を鍛え、郷土の精神身体の鍛錬に当たっていたという。 

 二十四歳にして副戸長に選ばれるなど、人望ある思慮深い有為の人物だったと思われるが、自殺にも等しいその最後は全く惜しみても余りあるものがあった。                        

                                                      文責 松下兼雄