「戦後五十年の生き証人」が語る 田原総一朗 中央公論(C)1996年4月
「やはりリーダーが間違うと国家全体が間違うということだ。まずトップがよくならなければだめなんだ」
四元義隆(よつもと・よしたか) 明治四十一年(一九〇入年)鹿児島県生まれ。第七高等学校卒。東京帝大法学部中退。昭和七年(一九三二年)の血盟団事件に連座し入獄(懲役一五年)。昭和十五年(一九四〇年)恩赦で出款後、近衝文麿、鈴木貫太郎のプレーンとして活躍。農場経営を経て三十年(一九五五年)から田中清玄の後を継いで三幸建設工業株式会社社長に就任。
この人物には資料というものがまるでない。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、そして細川護煕まで、戦後歴代首相の指南役として、この人物についての神話・伝説の類は少なからずある。
中曽根康弘首相は、その在任中、週末になると東京・谷中の全生庵で坐禅を組んだが、それは四元義隆の指示によるものだといわれている。
吉田茂が池田勇人に送った手紙の中にも、何度か四元義隆の名前があって、政治の結節点で、彼が両者を結ぶ何らかの役割を演じていたらしいことがわかる。だが、彼の役割がいかなるものだったのかは皆目わからない。資料の類がまったくないのだ。
一体、歴代首相は四元義隆にどんなことを求めたのか。四元義隆は、なぜ歴代首相に重用されたのか。そもそも四元義隆とはいかなる人物なのか。 まったく資料のない、つまり手がかりにならない神話ばかりにいろどられた人物へのインタヴューは難しい。
しかも彼は、いきなり″僕は、マスコミに出るのは昔から大嫌いだ。出たって何もしゃべらない。何もしゃべらないから僕の存在理由がある″のだと言った。 その人物にインタヴユーするとは、まことに矛盾した作業だが、いざ話しはじめると、たちまち四元の世界に引き込まれた。八十七歳とは思えぬ、エネルギッシュで迫力のある話し方だった。