有村治右衝門貞益(ありむらじうえもんさだます)

元禄九年八月六日生、宝暦六年三月一 三日死

 父は有村隼人貞益、母は野村半左衛門娘。治右衛門は隼人の二男に生まれ、正徳五年(一七一五年)三月、二十才の時分家して、別に家をおこした。元文二年(一七三七)から同四年まで、高究役を勤めた。元文三年の高帳によると、本家は六十一石余の知行で裕福であったが、治右衝門はわずかに二石三斗で、家計を豊かにするため、分家するやすぐに紙すきに目をつけた。

 蒲生の紙すきは、正保二年(一六四五)家老島津久通の奨励によって興っていた。 治右衛門は、正徳五年八月、日向国諸県郡高岡郷から、紙すきの指導者杉尾某を雇ってきて、始めて紙すきをやってみた。杉尾氏は製紙にすぐれた技を持ち、三枚紙その他をすいた。治右衛門も杉尾氏の指導を受け、紙すきに専念した。

 享保三年(一七一人)五月、新たに鹿児島から製紙人肥後某を雇い入れ、紙すきの発展をはかった。これを見て、村民も有村家で伝習し、製紙をなす者がふえた。 同年八月、始めて杉原紙を製紙することができた。ついで、赤塚二男家も杉原紙の製造にかかり、両家の製品は鹿児島へ売り出された。 同十年五月になって、治右衛門は製紙業に熟達し、村民も伝習した者が多くなったので、先に雇い入れた杉尾氏、肥後氏の雇いを解いて帰郷させた。こうして、治右衛門は蒲生製紙業発展に大きな貢献をなしたのであるが、宝暦六年(一七五六)三月十三日、六十一才でなくなった。法名傑心道英庵主、永輿寺に葬った。墓碑はその後、納骨堂に収めたので、現存しない。子孫は有村次彦氏である。         文責 松永守道


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