吉田茂との出会い
田原 その吉田さんと四元さんは深い関係にあったそうですが、どういう出会いをされたんですか。
四元 それが不思議な縁でしてね。近衛さんのプレーンに小畑敏四郎(おばたとししろう)という陸軍中将がいた。陸海軍を通じて最高の頭脳で、川上操六以来の参謀総長といわれた人だ。
・ 小畑敏四郎(一八八五〜一九四七年)は陸軍中将。昭和初期、永田鉄山(ながたてつざん)ら統制派と対立する皇道派の中心人物として活躍するが、二・二六事件後、皇道派系勢力が粛清されるなか、予備役編入となった。戦後、東久邇内閣国務大臣。
終戦の八月十五日、この小畑さんの家に泊まって話し合っていると小畑さんは「この人たちに会っておけ」と三人の名前をあげた。一人は自由党最高顧問の古島一雄(こじまかずお)、革新倶楽部の同志だった犬養木堂(毅)より上だと言っていたね。それから、自由党総裁の鳩山一郎。それと吉田茂。「外交官は腑抜けばかりだが、吉田は大和魂を持っとる」と。最初に古島さんと会った。たしかに立派な人だったね。その古島さんから吉田茂を紹介してもらったんです。
・古島一雄(一八六五〜一九五二年)はジャーナリスト出身の政治家。犬養毅の国民党、革新倶楽部、政友会などに拠り、犬養を支える知将と言われた。大正十四年に引退。戦後、鳩山→郎の公職追放後に自由党総裁就任を求められるが、吉田茂を推薦。吉田の指南役として重きをなした。
田原 で、吉田さんにお会いになったわけですね。印象はいかがでした。
四元 最初、小畑さんは「君は(血盟団事件のとき)牧野伸顕(吉田の義父)を狙ったんだよな。だから、吉田と会うのはどうかな」と漏らしていた。でも、今やもう何でもない、と思ったから堂々と会いに行った。本物だと思ったな。そのときの話のなかで牧野伸顕のこともちょいちょい出たけれども、本人は何のわだかまりも持っていなかった。腹の大きい立派な人だった。
田原 それはいつごろですか。
四元 東久邇(稔彦)内閣の外務大臣に就任する直前です。
あの内閣には僕も関係していたんです。東久邇内閣には小畑敏四郎さんが国務大臣として加わっていました。要するに戦前の反東條グループが集まったわけですね。あの内閣も二度ばかり危機があったけれど、それを乗り切ったのは小畑さんと、それから緒方竹虎さんの声望と人間性があったからです。緒方さんは惜しい人でした。吉田内閣の副総理で、いわば吉田さんの後継者だった。緒方さんも「吉田は僕の言うことは何でも聞く」と言っていた。
・緒方竹虎(一八八八〜一九五六年)は戦前戦中、朝日新聞社副社長。昭和十九年に政界に転じ、小磯内閣の情報局総裁を務めた。戦後、東久邇内閣書記官長として「一億総懺悔」を唱える。昭和二十七年に自由党代議士となり、第四次吉田内閣の内閣官房長官兼副総理。吉田退陣後、自由党総裁となり、鳩山内閣の後継首班と見なされたが、急死した。
田原 四元さんは、どういう資格で官邸におられたのですか。
四元 内閣嘱託だったかな。
田原 で、東久邇内閣の後、吉田さんが首相になります。吉田さんは四元さんと、いろいろな相談をされたそうですね。
四元 ほとんど忘れたな。吉田さんは負けん気が強くて、人に頭を下げる人じゃないけれど、吉田内閣ができて真っ先に行ったのは鈴木さんのところです。そこで鈴木さんは「負けたら負け振りを良くすることです」と言ったそうですね。だから、アメリカをあれだけ上手に使えたんじゃないかな。その話を吉田さんはときどきしていましたょ。
晩年、大磯に会いにいったら、「大磯あたりにうろうろせんで、早く″中国征伐〃に行きなさい」と言ってたな。ちょうど毛沢東華やかな時代だ。
田原 中国征伐とは、つまり日中関係を作りなおすということですか。
四元 日中関係をいちばん重視していたということだろうね。たしかに、日中関係は、僕の残された唯一の課題だな。
田原 吉田さんが首相としていちばん苦労したのはどんな点ですか。
四元 アメリカのことでしょう。アメリカの圧政というか行き過ぎに対抗しつつ、上手に操縦し、日本を再建した。あの人はチャーチルと対等になれる人だ。アメリカ人の気質なんてあの人からみたら小さいですょ。人間の器が違う。
岸内閣末期にパリにいた吉田さんを訪ねたことがあった。一緒に帰るわけにはいかないから、二、三日ずらして帰った。吉田さんをオルリー空港まで見送りに行ったんだが、赤い絨毯の上を歩いてゆく後ろ姿が本当に堂々としていた。背の低いずんぐりした人だが、日本を代表する人だと思ったね。池田勇人や佐藤栄作とは格が違っていた。
・吉田茂(一八七八〜一九六七年)が首相となったのは昭和二十一年。昭和二十二年の総選挙に敗れ下野するが、昭和二十三年、芦田均内閣の後を受けて再び首相となり、昭和二十九年十二月まで長期政権を維持。首相在任中にサンフランシスコ講和条約を締結、独立をかちとった。