中曽根を動かす人々の実像

  (作家)大下 英治


「自民党は中曽根と田中の勝負だ」

「中曽根総理の陰の指南役」といわれる存在の四元義隆に、わたしは訊いた。「中曽根総理は、田中角栄との今後の関係をどうすべきでしょうか」。

七百年の歴史を誇る北鎌倉・臨済宗円覚寺派の本山円覚寺内にある蔵六庵の一室であった。

四元義隆は、この俺の主である。四元は、肥前藩出身の政治家で外務卿として活躍した副島種臣(蒼海)の書を背にし、古めかしい卓を前に陣羽織を着て座っていた。眉毛は太く、郷土鹿児島の先輩西郷隆盛と似ていなくもない。がっちりした体は、人を圧倒する迫力があった。武骨な大きな手が印象的であった。昨年四月の桜の花の散る時期であった。
 

四元は、歯に衣着せぬ調子で言った。「たしかに、いちはん大事なのは、田中をどうするかだ。このまま総選挙になると、駄目だ。少なくとも、田中との関係はきっぱりしないといけない。田中曽根内閣じゃ駄目だ。ます、内閣改造をやるべきだ。田中曽根内閣から中曽根内閣に移行すべきだ。そうして選挙をやれば、三百議席はとれる。それからが、本当の自民党総裁としての度量が試される。選挙をやって、数をとれはいい。あとは、中曽根の度胸だけだ。大転換する方策はある。そして、本当はそれこそ、田中を救うことだ。田中は、まだ闇将軍として評判を落としている。むしろ、田中離れしてやったほうが、田中は救われるのだ。それが、中曽根にはわかっておらん。中曽根の知恵が上まわれば、田中を救うことはできる。自民党のこれからは、中曽根と田中の勝負だ。もし必要とあれば、ぽくは、いつでも田中に会う用意がある」

 しかし、中曽根総理は、四元の言うように田中離れをすることはできなかった。結果は、昨年十二月の第三十七回総選挙で、自民党は解散時の二百八十六から二百五十に議席を激減させた。自民党の大敗は、十月十二日の田中角栄のロッキード判決の影響であった。

こうした自民党大敗のなかで、非主流の福田赳夫、河本敏夫派を中心に、中曽根総理の責任を追及する声が高まった。とくに、田中問題について、中曽根首相が選挙中、「リンリ、リンリと、鈴虫みたいに騒ぐ」と、世論を逆なでするような発言をしたことなどに、あらためて党内から批判の火の手が上がった。そのような厳しい状況のなかで、引きつづき政権担当に意欲を然やす中曽根総理は、選挙直後の十二月二十三日の党最高顧問会議で「田中元首相の影響排除」の総裁声明を出し、批判の矛先をかわした。

 が、その後、今年の四月十一日、田中派の二階堂進(元幹事長)を党副総裁に指名。″声明″の空文化がすすんだ。この二階堂副総裁の、指名は、中曽根の再選工作の一つとも言われている。

 中曽根の一連の動きに、田中派は、早々と中曽根再選支授を打ち出した。これにより、中曽根再選は確実なものとなった。田中は、なぜ中曽根を担ぎつづけるのか。

政界では常識だが、田中はロッキードで無罪判決をかちとり、再度総理総裁の座に返り咲くことを真剣に考えている。そのためにも、世代交代につながるような動きには、警戒を強めている。世代交代すれは、自分の返り咲きの目はなくなる。

 いっぼう中曽根とすれは、再選されたあとは、党規約により三選はない。もうあとがないとなれば、中曽根も逆に開きなおる。四元の言いつづけてきたように、「田中離れ」をふくめた独自性を強めてくる可能性がある。

 中曽根は、最近、「戦後政治の総決算」ということを強調している。保守傍流でタカ派の中曽根は、敗戦後、第九条に象徴される平和憲法下での経済第一主義の日本政治の歩みに、強い不満を持っている。 

政権を担当し、これまでの戦後政治の流れを総決算し、自民党の保守政治をこれまでの経済中心主義から、政治中心主義に流れを変えるのが、中曽根の目標であり、本音だと言われている。それだけに、再選を果たしたあと、中曽根が正面から彼独自の″中曽根政治″色を強める可能性が強い。それほ、″改定″であり、″軍拡″への道につながる可能性も強い。中曽根は、政治中心主義の第一走者に自分を位置づけようとしている。 そのときこそ、「除の指南役」としての四元義隆の存在が、中曽根にとってより大きくなる。


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