識別:シナトラ

ビリー・ワイルダ監督の『ねえ!キスしてよ』という軽妙なラブコメディーにこんな場面がある。道路工事のため、車をストップさせられたディーン・マーチンが警察官に向かっていうのだ。「どうした、シナトラが誘拐されたのか?」

 ▼一九六四年の映画だが、実はこの少し前に、フランク・シナトラの子供が誘拐されるという事件があった。だからこの一言だけで観客はドッとくる。D・マーチンはむろん「シナトラ一家」の一員だ。ちゃっかり 親分 をネタに笑いをとっているのである 

▼ついでにいえば、この映画の冒頭でも歌手役のマーチンが舞台から「今度はシナトラやサミー・デービス と共演するよ」という。これまたドッと観客にうける。実際に出演しなくとも、名前が出るだけで客をひきつける。それが米国でのシナトラの存在感というものだった 

▼新聞の一覧表で数えてみると出演した主な映画だけで三十一本になる。しかし、『80日間世界一周』などワンショットだけの出演も多かった。「振り向けばシナトラ」という出方だったが、それで十分だった。繰り返すが、それがシナトラだったのである 

▼ただそれより前、アカデミー助演男優賞を得た『地上より永遠に』だけは違った。これがシナトラかと思わせるほどの汚れ役に徹し、主役のM・クリフトを輝かせた。いろんな裏事情もあったらしいが、人生の最大の勝負どころでは脇役に徹したのだ 

▼シナトラは一九一五年の生まれである。ゲーリー・クーパーもジョン・ウェインもヘンリー・フォンダもみんな、この世紀の初めのころ生まれた。良くも悪くもアメリカを演じ歌い、シナトラを最後にみんな去っていった。


識別:トラック

昔、といっても三、四十年ばかり前「トラ」というあだ名の力士がいた。虎みたいに強かったわけではない。阪神ファンだったからでもない。田舎からトラックの荷台に乗せられ入門してきた、というそれだけのことだった 

▼相撲界らしいおうような話だが、戦後しばらく、トラックはまだ「人貨共用」の素朴な輸送手段だった。舞台道具といっしょに荷台に乗って、日本中を回る旅芸人がいた。引っ越しにしても、手伝いの男衆が、荷物のすき間で引っ越し先まで移動したのである 

▼むろん、乗用車という乗り心地の良い車が普及していなかったことのころの話だ。昭和四十年代、五十年代、国鉄や私鉄のストのときには、たまりかねた企業側がトラックを確保、社員の通勤にあて、「ストライキとは尻が痛くなるもの」を実感させた 

▼ただその後のトラックは、ひたすら経済成長の先兵役をつとめた。ライトバンといったビジネスタイプもあれば、タンクローリーのようなちょっと危なげなのも登場した。ダンプカーなどその象徴のようなもので、トラックの生産台数が景気の指数のひとつとされてきた

 ▼そのトラックの国内での有力メーカーである日産ディーゼルが、どうやらドイツのベンツに買収されることになった。トラックの国内での販売が落ち込んでしまい、もてあまし気味だった親会社の日産自動車とアジア進出をねらうベンツの思惑が一致したのだという

 ▼いつの間にか、トラックの時代ではなくなってしまったらしい。しかし、荷物を運ぶトラックがお荷物になっていたとはシャレにもならない。横腹にベンツの名前を大書されてもいい、せめて世界で活躍してもらうよう願うしかない。


識別:ブッシュ

 きのうに続いて米国テキサス州の話である。この州の知事はジョージ・ブッシュ氏、つまり同じ名前の前米国大統領の長男である。実は今、この人の言動が全米から注視されているのだ 

▼それは、二〇〇〇年に行われる大統領選で共和党の最有力候補といわれているからだ。「ブッシュなら勝てる」と期待を寄せる共和党支持者も少なくない。しかし、ブッシュ氏は「まず、今年の知事選に勝つことだ」と態度を明らかにしていない 

▼そのブッシュ氏がテキサスで最も頭を悩ませ、力を入れているのが教育問題である。といえばすぐに、いじめだとか校内暴力、心の病気などを思い浮かべがちだ。しかし、ブッシュ氏の場合、もっと単純で根源的なこと、こどもの学力向上である 

▼テキサス州では小学生の五人に一人が規定の学力に達していないという。ところが、そんな子供たちもお構いなく次の学年に進級する。知事は「それはおかしい」と、思いきり落第させることにしたのだ。「そのままではコンピューターも扱えず、まともな職につけなくなる」という理由からだ 

▼テスト不要論まで出ている日本で、そんなことを言い出せば「子供の人権無視」と総スカンだろう。いや米国でも、これがブッシュ氏の選挙に有利にはたらくかどうかは疑問だ。しかし「それが結局は子供たちや州のため」と、正論を通すところが日本の政治家と少し違うのだ 

▼ちなみに、ブッシュ氏はジョークまじりに「私は少し有名な女性(前大統領のバーバラ夫人)の子に生まれまして」と語る。大統領の子供だったことに悩み、自らの出馬のネックも家庭にあるという、ごく普通のアメリカ人なのである。


識別:夜桜能

 葉桜の季節になって、こんな事を書くのもどうかと思うが、少し前、靖国神社の夜桜能を見に行った。野外の能舞台である。時折落ちてくる冷たい雨から、雨合羽と懐炉(かいろ)で身を守っての観劇となった

 ▼番組は、春の野で女性が若菜を摘む「二人静」などで、優雅な舞いは寒さを忘れさせるに十分だった。しかし、それより心暖かくさせたのは、こんな悪条件でも、誰も途中で席を立たなかったことだ。何百人の観客は二時間以上、実に行儀よく舞台とつきあった 

▼能をはじめ日本の伝統的芸能は、役者と観客との約束ごとで成り立つ様式美という面がある。手をたたくところでたたき、泣くところで泣く。一人でも身勝手な動きをすればぶち壊しだ。それを若い観客もよくわかっているらしいのがうれしかったのだ 

▼もっとうれしかったのは、能が終わった後のことである。若い、それも二十歳前後らしいアベックが、神社の本殿に向かい頭を下げてから帰っていったのだ。日ごろ、若い人の言動には何かと文句をつけることが多い。だが、この場面だけは胸がつまる思いがした 

▼同じ頃、ある新聞で著名な女性評論家が、埼玉県所沢高校生の入学式拒否問題でコメントをしていた。「時代錯誤の校長がきて漫画を描いたということではないか」。日の丸、君が代による入学式をすることがアナクロだというのだから、あいた口がふさがらなかった

 ▼ふだんは好き勝手なことをしていても、様式美の場面ではきちんと決める。これが今や、新しくて国際的な生き方なのである。三十年も昔の全共闘運動さながらに、生徒たちの無意味な反抗をあおるのと、いったいどちらが「時代錯誤」だというのだろうか。(4/26)


識別:井深大

昭和三十年代、四十年代に学生サークル活動に精を出していた人たちに忘れられない小道具、いや大道具がある。一つは謄写版(がり版ともいった)であり、もうひとつがテープレコーダーだった 

▼謄写版は会報を作ったり、学生運動のアジびらを印刷したりするためだった。テレコことテープレコーダーはそのころから、講演会や議論を記録するのに欠かせなかった。当時のテレコはテープの直系が一五センチほどもある大きな代物で、やたら重かった 

▼それでも、この文明の利器を持ち運ぶことで、文化活動の最先端にいるような気分になれた。それに、異性と二人でテープから文章を起こすという、密やかでちょっと不埒な楽しみもあった。がり版刷りもそうだったが、「文化」と「青春」を与えてくれたのだ 

▼ソニー創業者の井深大さんが、テープレコーダーを日本で初めて作るきっかけは、GHQが米国から持ち込んだ録音機を見たことだったという。「茶色のテープで、これぐらいの早さで回っていた」。工場に帰ってきた井深さんは指でくるり、くるり円を描きながら説明した 

▼それだけで、録音機の本質を見抜いたのが、後に専務となる若手技術者の木原信敏さんだった。二人はその日のうちにザーザーという雑音を再生するまでの装置を作り上げた。本紙夕刊に連載された『栄光のためでなく』に出てくる秘話である

 ▼井深さんのもう一つの傑作トランジスタラジオと同様、テープレコーダーも町工場時代の井深さんたちの「夢」から生まれた。昭和二十五年、井深さんたちがめいめいの声を吹き込んだ日本初のテープには、通りがかったチンドン屋の音がかすかに入っているという。


識別:蒲生

鹿児島県蒲生町の八幡神社境内に幹回りが二十四 、樹齢千五百年という巨大なクスノキがある。環境庁の巨木調査で日本一と認定された大木なのだが、その大クスが今 緊急手術 を受けている 

▼このところ、空洞になっている幹の内部の腐食が進んだり、葉のつやが悪くなるなど、健康状態がおかしくなった。そこで 転移 を防ぐために腐った部分を取り除いたり、樹皮から雨水がしみこまないようにするなどの治療が進行中なのだ 

▼かつて「日本中の樹霊が泣いている」と言ったのは確か司馬遼太郎さんだった。コンクリートジャングル化や大気汚染で、樹木が健康に生きていける環境が失われつつある。病んだ木の樹勢を回復させるため、農林水産省が認定する樹木医、つまり「木のお医者さん」は全国で五百人をこえる

 ▼ただ、蒲生のクスの場合、少し事情が違うようだ。この町の人たちは、町ができるより早くからあった大木を宝物のように大事にし、ともに生きてきた。町の祭りはこの大クスの下で行われ、木の回りを掃除するのは近くの小学校の子供たちの仕事だった

 ▼根の回りには石を積んで祭壇のようにし、柵で保護した。ところが、こうした畏敬や過保護が大クスにとって文字通りプレッシャーとなったようだ。地中の根を圧迫し、水分や滋養をとりにくくさせたのだ。余分な枝を取り除かなかったことも、幹を弱らせることになった 

▼自然との共生といっても、その付き合い方はかほどに難しい。刃物を持つ少年たちの例を上げるまでもなく、人間の世界でも痛感させられることでもある。大クスの方はこの後、石積みを取り除くなどすれば、若々しい樹勢を取り戻すことができるというが。


識別:岩風

昭和三十年代に岩風というお相撲さんがいた。一七四センチの小柄な体ながら怪力、頭を相手の胸につけてもぐり、左まわしを取ったらテコでも動かなかった。 潜航艇 のあだ名があり、横綱若乃花を土俵外に放り投げたこともある 

▼昭和の名力士の一人だが、愚直がまわしをつけているような人柄で、無口は記者泣かせだった。そのせいか、引退後は親方になれず相撲界を去る。廃品回収業などをして市井に暮らし、五十四歳でなくなった。相撲協会の重鎮となった少し先輩の栃・若らに比べ、ひっそりとした晩年だった 

▼考えてみると、十代半ばでこの世界に入る力士たちが、相撲界を離れて第二の人生を送るというのは容易なことでない。だから大半は相撲協会で働くことを希望するが、「年寄名跡」という親方株を入手しないと、残れないという仕組みになっている

 ▼その年寄り株も昔から百五と限定されているから、必然的にプレミアがつく。高額での売買が行われていることが公然と言われる。理事選出で史上初めて実際に選挙が行われる事態になった相撲協会の内紛?の背景には、この年寄制度の改革問題があったようだ 

▼理事選びを選挙に持ち込み、風通しのいい協会運営を求めたのは主に若手の親方衆らしい。ところが、その若手は、親方株改革には余り積極的でないという。どうも、自民党や旧新進党での論争によく似ていてややこしい

 ▼いずれにせよ、金があって要領のいい者だけが残れるという世界も、政界みたいでさびしい。年寄り株を百五だなどと限定せずに、一気に百五十ぐらいに増やせば、ことは解決するようにも思えるのだが、リストラの時代に暴論だろうか。


識別:金木犀

 雨にぬれながらだったが、バス停にあるキンモクセイがかすかに香りを放ち始めていた。残暑や長雨で例年より遅い感じだが、十月の声を聞いて、あわてて帳尻を合わせようとしているようでもあった 

▼日本ではキンモクセイをはじめギンモクセイ、ウスギモクセイを合わせて木犀と書く。原産地の中国では桂花と書くのがモクセイで、白い花のギンモクセイが主流らしい。しかし、日本では橙色の花がよく目立ち、匂いも強烈なキンモクセイが圧倒的な人気だ 

▼昔は「九里香」と書いた本もあるとかで、その香りは実に遠くまで届く。窓を開け、はてどこから匂ってきているのかと惑うこともある。春先の沈丁花とともに、香りだけで季節の変わり目を楽しむことができる。マンション暮らしの多い現代人のすてきな「友」でもあるのだ 

▼甘ずっぱい香りと十字架状のかれんな花を見ると、ついつい女性を想像するが、実はれっきとした「男性」なのである。キンモクセイは雌雄異株の木だが、日本では雄の木しか植えられていないのだ。花があれば十分で、実はいらないということらしい 

▼雌雄異株といえば、イチョウがその代表だろう。よく街路樹として植えられるが、雌の木が付ける実、つまり銀杏が落ちると異臭を放つし、道路もきたなくなってしまう。だから、街路樹には雄の木ばかりを選んで植えることになっている 

▼ところが昭和初期、大阪に御堂筋ができイチョウを植えたところ、なぜか雌の木が何本も紛れ込んでしまった。今でもこの時期になると市の職員は銀杏を落としたり、掃除をするのに忙しい。人間も勝手なものだが、植物の方はもっとしたたかで、たくましいのである。


識別:月の砂漠

 ひょんなことで千葉県の御宿町という所を訪ねた。太平洋に面した小さな町である。白い砂浜が続く海辺のあたりは、行ったことはないけれども南仏あたりの保養地を思わせた 

▼そんな雰囲気なので、大正のころから山の軽井沢と並んで、東京の人たちにとって、ちょっとした憧れの地であった。余談ながら、昭和三十年代に子供たちの人気を呼んだNHKのラジオドラマ『1丁目1番地』で、「おばあちゃん」が住んでいたのもこの御宿だった 

▼竹久夢二らと並ぶ抒情画家で詩人の加藤まさをも、若い頃好んでこの地に逗留した。そして白い砂浜を歩いているとき、ひとつエキゾチックなイメージが浮かんだ。王子と王女がラクダに乗って砂漠を旅するのである。それが「月の沙漠をはるばると」という名曲『月の沙漠』となった

 ▼その砂浜には月の沙漠記念館が建てられ、記念像もある。しかし、青い波が打ち寄せ、柔らかい陽光が差しそむるこの浜辺と、砂漠とではあまりにもイメージが違う。そんな無粋なことを考えていたら、加藤自身によって、ちょっといい答えが用意されていた 

▼もし、本当の砂漠を見ていたらあんな歌などできやしない。厳しい風土の砂漠の中を、のんびりラクダに揺られて旅などできるわけがないのだからだ。この浜辺だったからこそできたー晩年この地に移り住んだ加藤は常々、そう語っていたのだという 

▼『月の沙漠』は今でも「日本の歌」ベスト10に入るほどに親しまれきた。チャップリンではないが、人生に一番必要なのは、きっと優れた想像力なのだ。もっとも、抒情詩人の想像力をかきたてた浜辺は今、サーファーたちの天国となっている。


識別:故郷へ

 霞ヶ関のいわゆる「高級官僚」のAさんに聞いたちょっといい体験談である。この人の故郷は九州の東シナ海に面した町だが、ご多分にもれず過疎が進んでいる。母校の小学校も子供が減る一方だ 

▼ところで、その母校には何年前からか、ひとつ掟のようなものがあった。卒業生は五十歳になると、運動会に帰ってきて、六年生と徒競走をしなければならないというのだ。Aさんは最近その「赤紙」を受け取った。酒を断ち体調を整えてかけつけたのである 

▼といってもケガでもしたら大変だ。軽く流すつもりでスタートした。ところが突然、四十年前のガールフレンドたちから「Aさーん」という黄色い声援が飛んだ。官僚としての理性もものかは、猛烈にダッシュ、結果は全治一週間の肉離れだった 

▼後段はむろん余談である。だが今、地方を中心に「卒業何年」ではなく、五十歳記念の同窓会が盛んになってきているのだという。Aさんたちのように、母校が呼びかけてみたり、市町村が肝入りとなったりして開く場合もあるそうだ 

▼五十歳前後というのは、使い古された言葉だが団塊の世代である。何しろ数が多いし、この不況だ。今、真っ先にリストラの嵐にあっている人たちである。そこの弱みにつけこんで、といえば聞こえは悪いが、過疎に悩む故郷が「帰っておいで」と、誘っているのかもしれない 

▼先日の本紙社会面には、サラリーマンが田舎に帰る「帰農」が静かなブームである、という記事があった。定年後の生活設計が多いが、リストラも拍車をかけているらしい。「夢破れて」などと悪びれることは少しもない。元々、生まれ育った所で働けるのなら、それにこしたことはないのである。


識別:室生寺

 「鶏頭の皆倒れたる野分哉」。正岡子規は台風の翌朝、被害への驚きを、こんなさりげない句に託した。もっとストレートに「塀こけて家あらはなる野分哉」というのもあった 

▼明治の末、進路予想どころか台風の情報がほとんどなかったころだ。いきなり襲ってきては、大きな傷あとを残していくことへの衝撃は、今と比べ物にならなかっただろう。しかし現代でも、近畿から列島を駆け抜けた7号の被害は予想を上回る驚きだった 

▼死者・行方不明が十人を超えたのも、最近ではあまりなかった。長野県ではリンゴの被害が百億円以上になるという。その上、昨日の朝刊に載った奈良・室生寺の五重の塔の写真には目をむいた。杉の巨木が倒れて屋根を大破し、立っているのがやっとという惨状である 

▼室生寺は奈良といっても、三重県境に近い山中にある。近鉄の駅からバスもあるが、山道を二時間ばかり歩くと、突然小さな人里と国宝の典雅な五重の塔が現れる。初夏にはシャクナゲが咲きみだれ、ちょっと桃源郷のような赴きがあった 

▼その山里に平安初期に建立されて以来、千二百年も無事だった。近くを通った伊勢湾台風にも耐えたのに、今こんな目に合うとは思いもしなかっただろう。テレビで寺の関係者が「無残な姿をさらしたくない」と語っていたが、まったくその通りだ

 ▼7号に関していえば、スピードが早く、警戒する間もなく上陸した。その後も勢力が衰えなかったことが被害を大きくした。室生寺は不可抗力だとしても、情報や防災施設の発達で、台風に少し鈍感になり始めていることもあったかもしれない。「天災は忘れたころに…」は決して死語ではないのだ。


識別:植物

 友人から『植物の私生活』(デービッド・アッテンボロー著、山と渓谷社)という本が送られてきた。植物学者の長田武正博士の書評つきだったが、思わずニンマリしながら読まされてしまった 

▼ひとつは書名の「私生活」が秘めごとっぽくてひきつけるが、その通り、植物たちの生きるための秘めごとである。例えば、生き物にとって最大の関心事の子孫を残すことに、どれだけ智恵を働かせていることか。ヨーロッパのランの一種ミラーオーキッドの場合はこうだ

 ▼ハチが恋の季節を迎えると、このランの花弁が雌バチそっくりに化ける。雄バチが本物の雌と間違え、求愛しようとして止まると、ランの花粉塊が頭につく。雄バチがこりずに、別の雌バチそっくりの花に止まると、労せずしてランの花どうしの結婚が成功するのだ 

▼イギリスのブラックベリーというイチゴの一種は、鋭いトゲで他の植物をひっかき押しのけ、自分の気にいった場所にまで茎を伸ばす。そこで新たに根を下ろしてしまうのだ。長田さんも「植物に、心というと問題あろうが、生きる意志のあることはわかるだろう」と感嘆する 

▼実はこの本、世界の多くの国でベストセラーになるほどの評判だそうだ。一番の理由は、人間の世界に何とも良く似ているからだろう。男と女の、あるいは国と国とのようなだまし合いもあれば、勝手に他人の土地を占拠する乱暴者もいるのだ 

▼といっても、間違えてはいけない。植物たちが人間に似ているのでは決してないのだ。植物はヒトが出現するよりずっと前からこうした智恵を身につけてきた。むしろ人間の方が、植物の生きる術を引きついでいるように思えてくるのだ。


識別:大下弘

 「日本のプロ野球が今の繁栄を迎えるためには、二人の背番号3の存在が必要であった」。辺見じゅんさんの『大下弘 虹の生涯』(新潮文庫)はこんな書き出しで始まる。一人はむろん長嶋茂雄現巨人監督である 

▼もう一人の大下弘はプロ野球復興の昭和二十一年、セネタースという新球団に入る。そしていきなり、当時の本塁打記録を大きく上回る二十本のアーチをかけた。人々は大下のホームランを見るため球場に足をはこんだ。戦後野球の救世主だったのだ 

▼大下は後に西鉄に移り「野武士打線」の四番に座る。しかし、セネタースの方はたった一年で経営が行き詰まり東急に身売りする。その後も急映、東映、日拓ホームなどと名前を変えた。ようやく日本ハムで落ちついたものの、これほど遍歴を余儀なくされた球団も珍しい

 ▼それでも大下らの時代に醸成された気質は脈々と受け継がれた。大下自身、徹夜マージャンの翌日、7打数7安打という記録を残したこともある人である。山本八郎、張本勲といったちょっと型破りな選手たちによって、この球団は支えられてきた 

▼そんな伝統が、今年突然よみがえってきた。今は少し下り坂とはいえ、日ハムのビッグバン打線は「ハマの大魔神」とともに、前半戦の主役だった。何といっても、小さいことにこだわらず、十二球団断トツのチーム本塁打で勝つ。それが大下の時代を彷彿させるのだ 

▼辺見さんによれば、大下が「廃墟の空に放った」ホームランは球場に少年の夢と女性の華やぎとを導き入れた。ビッグバン打線も新しい夢を育てることだろう。ついでに、どこかちまちまとした社会の空気をも吹き飛ばしてほしいものである。


識別:大蛇伝説

 古くからの読者の方ならご記憶がろう。昭和二十年代の産経新聞に「少年ケニヤ」という絵物語が連載された。山川惣治氏の作品で、わたるという少年が動物たちを引き連れて冒険するという話である 

▼これが大変な人気を呼んだ。どのくらいの人気だったかといえば、引き連れる動物に大蛇のダーナがいて、この大蛇が出た日は株価が上がるという 伝説 が生まれたのである。証券界に「ダーナ相場」という新語まで登場したほどだった

 ▼ヘビは商売の神さまとしてありがたがられることが多い。加えて大蛇のくねくねした体型が株の上がり下がりのグラフを思わせたからという説もある。いずれにせよ、先輩記者によれば「明日は大蛇が出てくるのか」という電話が、新聞社によくかかってきたそうだ

 ▼この大蛇伝説が生きていたのでは、とほおをつねりそうになった。埼玉県狭山市で飼育されていたニシキヘビが逃げ出した 事件 である。心配させられた近所の人達には申し訳ないが、騒ぎが起きた先月三十日から二日まで、東京証券取引所の株が急騰し、平均千円以上も値上がりしたのである

 ▼むろんこれは単なる偶然だ。ただ、今回の株高騰の理由は大蛇のせいにしたいぐらい、素人にはよく分からない。自民党から流れる「恒久減税」を歓迎したとの見方もあるが、「参院選向けで、市場は相手にはしていない」という反対の解説もあった 

▼不況からの脱出の目安として株価上昇を期待するのは当然だろう。しかし大蛇伝説を持ち出すまでもなく、相場の動きは必ずしも経済状況を反映したものではないのだ。その点、報道が株価に一喜一憂しなくなったのは好ましいことに違いない。


識別:大統領

 太閤秀吉の命を狙って伏見城に忍び込んだ伊賀忍者、葛籠重蔵は苦心の末、秀吉の寝所にたどりつく。しかし、寝ていたのは天下の支配者のイメージとはほど遠い、貧相な一老人に過ぎなかった 

▼映画化される司馬遼太郎氏の『梟の城』の一場面である。この後、重蔵がどんな行動にでるかは原作や映画でのお楽しみだ。ただ、重蔵の愕然とした心情が、クリントン大統領の「不適切行動」を次々と暴いて見せられる米国民や世界の人々のものに似ているように思えてならないのだ 

▼米国大統領といえば、世界一の権力者といっていい。だから普通の人とは違う、意志強固な超人である。と、少し前までは誰もが思っていただろう。それが、自分や自分の亭主と少しも違わない「普通のエッチなおじさん」になってしまったのである 

▼昨日の本紙「談話室」のテーマ投稿は「私が米大統領夫人なら」だった。投稿者はむろん女性が多い。「私ならとっくにキレてる」「辞任させ、離婚します」という「許しません」 派が主流のようだが、大統領を支えるヒラリー夫人への同調も意外と多かった 

▼その一人、東京の森山唱子さんの「あの忙しい中でようやるわ、とほぼヒラリー夫人と同じ態度をとるであろう」には思わず笑った。森山さんのようなヒラリー支持派には「大統領といっても、しょせん普通の男だから」といった諦念のようなものも感じさせた 

▼米国内で大統領の支持率が下がらないのは、政治の世界では七不思議のようだ。「政治と私事は別」といった建前論だけではないだろう。「しょせん、大統領だってその程度の男」というあきらめが原因だとすれば、政治離れの極みだといえそうだ。


識別:長野五輪

 小林一茶は四十九歳のとき、故郷である北信濃の柏原村に帰った。今の長野県上水内(みのち)郡信濃町である。ここを拠点に六十四歳で死ぬまで、信濃の人たちに俳句を教えて過ごした 

▼柏原村は新潟県との境に近く、雪が深い。運動面のスキー場だよりを見ると、近くにある黒姫高原の六日の積雪は一九〇aとある。尺貫法でいえば六尺余りだ。だから、有名な「是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」の句も、あながちオーバーではないのである 

▼童門冬二氏の近著『小林一茶』(毎日新聞社)によれば、一茶の帰郷により、信濃には彼を核とする「小宇宙」ができた。人々は俳句のとりこになった。冬の間、雪の中で手仕事に励み、楽しみの少ない人たちが「生きる喜び」を俳句の中に見つけたからだという 

▼むろん、雪の句ばかりを作っていたわけではない。岩波文庫の「一茶俳句集」をめくってみると、一茶の晩年にはむしろ、春の句が圧倒的に多いようだ。前半生の故郷とのあつれき、曲折を乗り越え、雪の中で春を待つ人たちと、気持ちがひとつになったからかもしれない 

▼昨日開会式が行われた長野五輪の会場は一茶の故郷に近い。その開会式の様子をテレビで見て、何とも色彩豊かなのに驚いた。諏訪神社の御柱も、雪ん子の踊りを見せてくれた子供たちの服も、そしてむろん土俵入りの力士たちの化粧廻しも、みんなそうだった

 ▼長野五輪は「平和の五輪」なのだという。「環境との調和」なのだともいう。しかし何よりも、一茶以来、いやそれよりずっと前から、雪国の人々が待ち続けた飛び切り華やかな「ハレ」の世界なのだと思いたい。そう思って、成功を祈らずにいられないのである。


識別:鎮守の森

 ハロラン芙美子さんは長崎県生まれで、米国に住む日本人だ。そのハロランさんの近著『アメリカ精神の源』(中公新書)は、米国が想像以上に、キリスト教に根差した国であることを教えてくれる 

▼人口の四割、一億人以上の人が毎週あるいは定期的に教会に礼拝に行く。中でも注目されるのは、二、三十年前のべトナム反戦運動時代に親に反抗し、宗教を攻撃した世代が、自ら家庭を持つようになって大量に教会に帰ってきた現象だという 

▼教会を社交の場としか考えていない人も多い。しかし、そこに帰る理由の一つは子供の教育にとって「いい」と考えるからのようだ。自ら受けたカトリック教育への反発からか奔放に生きる歌手のマドンナさんも、「子供はカトリックとして育てる」と宣言したのだそうだ 

▼そのことを思えば、きのうの本紙一面「教育再興」で、「鎮守の森」が教育の場として見直されているというのは、曙光を見るようないい話だった。まだ細々とした流れであある。だが、地域の子供たちを神社の庭に集め、キャンプを張るなどの試みがなされているのだ 

▼明星大教授の高橋史朗によれば、社(やしろ)は「いやしろ」であり、「いのちをよみがえらせる場」であるという。かつて鎮守の森は遊びや祭りを通じ、子供たちに日本社会の伝統や生命について教える場所だった。教会と同じような役割を担っていたのである

 ▼とはいえ、米国人が教会を思い出したほどに、日本人が鎮守の森に帰るのは容易でない。地方出身の友人は二・五万分の一の地図で、故郷の神社が今も残っているのを知りホッとした。ホッとしたものの、学ぶべき子供たちは過疎でほとんどいないのだ。


識別:彼岸花

 所かまわず、といっては失礼だろうが、ヒガンバナが本格的秋の到来を告げるように咲き誇っている。埼玉県の日高市では、高麗川にそって百万本が群生していて、圧巻としかいいようがない景色を見せる 

▼曼珠沙華とも呼ばれるが、死人(しびと)花という、かわいそうな別名もある。墓地に多いせいもあるが、花から球根まで猛毒を含んでいるからでもあろう。うっかり口にすると嘔吐や下痢を起こす。神経マヒに陥ることもある、とたいていの植物図鑑に書いてある 

▼実はこの植物には、花は咲いても種子ができない。繁殖力が弱いから、動物のエサにされてはあっという間に滅んでしまう。だから自衛策として全身に毒を帯びた。しかも「食べたらだめよ」というシグナルのため、あれほど派手な花をつけるようになったのである 

▼ヒガンバナに限らず、身を守るために毒をもつ植物はよく目立つ。かつて保険金殺人に使われた疑いがあったヤマトリカブトも青紫の大きな花をつける。キノコでもドクキノコほど派手派手しい。生きとし生けるものが、生き残りにかけるしたたかな知恵なのだ 

▼動物たちも長年の経験でよく知っていて、ヒガンバナには近づきたがらない。墓地にこの花が多いのは、野犬に墓を荒らさせないように植えたからだ。川の土手や畦も、穴を空けて水漏れを起こすネズミやモグラを追い払うためなのだ(光琳社『草木の本』) 

▼「だから、美人・美男には要注意」などとは、口がさけていわない。しかし、巧言令色というか、耳当たりがよい言葉や飾ったような表情の裏にはきっと毒もある。政治の世界でも身の回りでも、草花や動物たちの知恵からそのことを学ぶのはいいことだ。


識別:福井謙一

 福井謙一さんのノーベル化学賞受賞が伝えられたときの、マスコミや文部省の狼狽ぶりは今でも語りぐさである。福井さんが後に語ったところによると、「自分でも意外だったでしょう」と迫ってくる記者がいて、困った 

▼むろん意外と感じたのは、福井さんの名前も業績も知らなかった記者の方だった。福井さんは「いえ、むしろ待ち兼ねていました」と、絶妙の切り返しで応じたという。もっとも、身内の恥をぬぐうわけではないが、このことは福井さんにとって不名誉なことではなかった 

▼福井さんは、哲学者梅原猛さんとの対談『哲学の創造』で、学問に対する考えを余すところなく語っている。それによると、京都大学で選んだのは応用化学だったが、すぐに、物理の量子力学を学んだ。田辺元の哲学の授業に通い、「西田哲学」も熱心に勉強した

 ▼応用化学といっても、自らの思想や哲学そのものであった。ノーベル賞の対象になった「フロンティア電子理論」は、湯川秀樹の「中間子論」にも匹敵する基礎理論だといわれる。そもそもが、簡単にマスコミにうけるような俗っぽいものではなかったのだ

 ▼その『哲学の創造』の中で福井さんは、さりげなく、いかにもさりげなく「結局は生滅流転(しょうめつるてん)です」と述べている。「ものが生まれれば必ず無くなるし、ある物は別のある物をつくるために使われる。宇宙には生滅流転の姿があるだけ」だという

 ▼科学と哲学との間で生きた福井さんの結論だったのか、考え方の基本だったのか。それはともかく「生滅流転」という仏教的四文字熟語だっのが、実に興味深かった。訃報が飛び込んだのは、東京が雪で凍りついた朝だった。


識別:変人

 今年の新語・流行語大賞のひとつに「凡人・軍人・変人」というのが選ばれた。むろん、七月の自民党総裁選で、立候補した小渕、梶山、小泉の三氏を評した田中真紀子さんの 名言 である 

▼はて、この「変人」という言葉がやたら出てくる話があったはずだと考えていたら思いだした。漱石の『吾輩は猫である』だった。「吾輩」の主人である珍野苦沙弥先生や、珍野家に集まる迷亭君らが周囲に揶揄されるとき、決まって「変人」と言われるのだ 

▼例えば、近所の車屋の妻が「あの教師と来たら本より外に何にも知らない変人なんだから」といった具合である。漱石自身が書いた『猫』の広告文にも出てくる。「主人は教師である。…いずれも当代の変人、太平の逸民である」(岩波版漱石全集)と 

▼苦沙弥先生は、知られる通り漱石の分身である。漱石も著名になるまで「変人」扱いされたことだろう。しかし『猫』を読むと、そう言われるのが内心よほど気に入っていたように思えるのだ。「本しか知らない」などとくると、身がよじれるような喜びを感じたに違いない 

▼実は、自民党の三氏も自らへのレッテルが気に入っている。ないしはそれを利用しているフシがある。「軍人」の梶山静六氏はかつての 武闘派 に目覚めたように新・主流派をつくった。「変人」の小泉純一郎氏は一言居士ぶりで、その存在感を示そうとしている 

▼それはいいが、いつまでも「凡人」や「ボキャ貧」を売り物にしている首相というのは如何なものか。あの人は「凡人」を装った「非凡人」だった。と早くそう言わせてほしい。言うまでもないが、漱石も苦沙弥先生もただの変人ではなかったのだ。


識別:本塁打

 米大リーグ・マグワイア選手のシーズン本塁打記録更新が秒読みに入った。これからの数試合、歴史的ホームランが飛び込みそうな左翼席のチケットは何十倍の値がついているという。今、米国最大の関心事なのだ 

▼野茂投手をはじめ、日本選手もピッチャーなら大リーグで通用する。しかし、打者だと逆立ちしてもマグワイア選手たちにはかないそうもない。その理由(わけ)を米国野球に詳しい佐山和夫氏が近著『ベースボールと日本野球』(中公新書)で明快に解き明かしている 

▼日米野球の違いは、まずその生い立ちにある。米国では子供の遊びから始まり、それがプロ野球となった。野球はあくまで遊びであり娯楽なのだ。これに対し日本では米国から移入された野球に最初に手をつけたのは一高の生徒、つまりエリートたちだった

 ▼そこから逆に子供たちに広まったのであり、「精神野球」だの「球道」といったイメージがつきまとうのはそのせいだ。もうひとつは生い立ちとも関係あるが、米国野球は「打つ」ゲームであるのに対し、日本の野球は「守る」「打たせない」野球であることだ

 ▼おもしろいことに、ベースボールの元祖であるタウンボールでは、投手は下手から打ちやすい球を投げなければならなかった。打つことが全てだった。だから米国民は今、マグワイアの本塁打に野球の原点を見ているに違いないのだ

 ▼むろん、彼我の国の民族性の違いもある。どちらの野球が面白いのかは、好みの問題だろう。ただ、閉塞状況といわれて久しい日本の政治や社会が米国のベースボールから学んでいいこともある。来た球をひっぱたくのだという、その単純明快さである。


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