日本の学校の近現代史教育

背景には「温かい視線」を。司馬さんの著作で故郷への「誇り」

ことし八月、朝刊三面の靖国神社参拝についての囲み記事で、「私の故郷には四百年前の関ヶ原の合戦の犠牲者の記念碑がある」ということを書いた。するとある人から「その話は司馬遼太郎さんの『街道をゆく』の中に書いてあった」という指摘を受けた。

 迂闊だった。と思うと同時にびっくりした。故郷というのは鹿児島県姶良(あいら)郡蒲生(かもう)町という所である。七年版自治年鑑によれば人ロわずか七千七百九十四。日本一の巨木と認定されたクスノキがあることがちょっと知られているぐらいの過疎の町である。その町をわざわざ司馬さんが取り上げてくれているとは知らなかった。                                                                                       

 それは『街道をゆく3』(朝日新聞社)の「肥薩のみち」の中にあった。司馬さんは、この小さな町のことを文庫本にして十八ページもさいて、描いてくれていた。拙稿の記念碑の部分はこうある。

  「台上には、この蒲生郷のサムライたちが経てきた各戦役の記念碑か林立していた。日清日露や大東亜戦争の記念碑なら各地にあるが、この郷では戊辰戦争のもあり、それ以前の薩英戦争の碑もあれば、さらに最大のものとして関ヶ原の役の記念碑までずっしりすわつており、日本戦史そのものがこの郷に集約されている観があった」                                                                                  

 司馬さんを案内した町の一人は「関ヶ原のときゃ、私の先祖は戦死しました」と、このあいだのことのようにこぽした、とも記す。 

 こんな個所もある。「この衆は藩内でも醇朴で知られ、たとえば有名な関ヶ原の退却戦でも最後ま踏みとどまるなど、どの戦場でも損な役まわりをひきうけてきた」

 「関ケ原の退却戦」とは、負けた西軍に加わった島津義弘(惟新)軍が、あえて敵中を突破して退却したことである。退却戦の最後尾を務めることはもっとも至難とされる。 

 「やっぱり」と、わが身に置き換え、思わず膝をたたいた。もっとも、この点についてばかりは、同僚や知人たちから「そこだけは違う」と猛烈な反論を受けた。 

 司馬さんかこの町に関心を示してくれたのは、いまだに「士族」という呼称が幅をきかせ、武家屋敷が残っているといった、“サムライ”気質にあつたらしい。そして私たちも知らかったひとつの秘話を披露している。 

 それは終戦直後、鹿児島市に進駐してきた米軍に対し蒲生の士族か竜ケ城という峻険な山城跡(私たちにとっては春の遠足の場所だった)にこもり、徹底抗戦するという「おそるべき巷説」が流れたというのである。米軍もこの巷説を本気で信じたらしく、夜襲部隊が先手をとって機関銃や迫撃砲で町を包囲した。時の町長を鹿児島まで拉致し、「そういう事実はあるか」と問いただす。すると、北原健さんというその町長は「一笑し『いかにも蒲生の士族が関ケ原以来勇悍できこえているといっても、アメリカ合衆国相手に戦争しようとは思わない』と答えたといわれている」。

 行間からは、たとえ巷説とはいえ米軍の心胆を寒からしめた「サムライ」たちの気骨や、町長のいかにも稟(りん)とした姿勢か滲み出てくるようだ。

 ちなみにこの北原町長は、私の小学校時代の親友で今は東京に勤める北原源平くんのおじいさんである。まげをゆわせ、日本刀 を持たせればまさにサムライという風貌の源平くんは「そういう話を聞いたことがある」と、概略を書いた郷土史のコピーを見せてくれた。 

 

長々と故郷自慢を書いてしまったが、いわんとするところはすでにおわかりいただけたと思う。日本の近現代史の教科書や学校での教え方のことである。産経新聞がすでに何度も指摘しているように、明治以降の日本の歴史、とりわけ満州事変から太平洋戦争までの教科書が教える歴史によれば、日本の行為はすべてが「悪」であった。

  事実だけを見ればそうかもしれない。だか、その事実の裏にある当時の日本人たちの生きざまや思想、それに国際関係といったものにまで光を当てて、その部分に対しては温かい視線や理解を示さなければ、救いはない。歴史を正しく学んだことにもならない。そんな教育を受けた子供たちか自国に対する誇りや愛情をもてるだろうか。

  私の郷里のことも同じだ。もし表面ばかりを見て、「とんでもない戦争好きの乱暴者たちの町で、いまだに戦争礼賛の記念碑を大事にしている。国際認識もなく終戦後も無謀に米国と戦おうとした」と書かれたらどうだっただろう。 

 司馬さんの視線はまるで小春日和の日差しのように温かい。それは「サムライ」たちか今に引き継いでいる“死生観”のようなものをまで見抜いておられたからだろう。その視線は、これを読む町の人や出身者にささやかな誇りを与えてくれる。私も源平くんも「これで後十年は生きていける」と本気で思った。 

 有名な聖書の「人はパンのみに生きるにあらず」というのは、そのまま受け取るべきだ。人はパンのみではなく、ひと握りの誇りや自負によっても生きるのである。(平成8年11月14日産経新聞夕刊記事)(さらき・よしひさ)

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